カント

 

 

 イマニュエル・カント(Immanuel Kant 1724-1804)は東プロイセンのケーニクスベルクで生まれ育った。彼の家庭はキリスト教の熱心な信者で、彼も最初は崩れ行くキリスト教の基盤を救おうとした。彼は、世界で最初の哲学の大学教授である。「哲学者」という言葉にはふたつの意味がある。

@       哲学的な問いに答えようとする者

A       哲学の歴史を研究する者

彼は、後者の意味を持った、初めての哲学者であった。

彼は、合理主義者であり、同時に経験主義者であった。合理主義者と経験主義者の論点は「世界は、我々の理性が作り上げたものか、それとも我々が知覚を通じて感じることにより存在するのか」と言うことになる。カントは、これまで、合理主義者、経験主義者ともに、極端に走りすぎていると考えた。カントによると、

「世界は全て五感による観察によってのみ知ることができる。」(経験主義的)

「しかし、『いかに観察するか』は、その人間の持つ理性によって決まる。」(合理主義的)

ということになる。例えば、赤いレンズの入った眼鏡をかけて世間を見ると、全てが赤く見える。つまり、同じ景色であるが、レンズの色によって、見え方が違ってくる。レンズが物を見る「前提」となっているのである。カントは理性がこのレンズの働きをすると述べる。

 カントは「空間」と「時間」を認識することは、人間の直感であるとし、それは、人間が学ぶことなしに、生まれながらにして持っている能力であると考えた。しかし、感じ取られた「時間」と「空間」は、世界に普遍的に存在するものではなく、それを感じ取る人間の意識の中に存在するものである。人間の意識は受動的な単なる「黒板」ではなく、「時間」と「空間」を作り上げる、創造的な力を併せ持つとカントは述べる。水を容器に流し込むと、水は容器と同じ形になる。この場合、容器が人間の「意識」で、水が「経験」であると言える。

 物事の認識について、カントは五感で感じられる外界との関係を認識の「材料」(マテリアル)、人間の中に備わっている、時間的、空間的な関係を認識の「形」(フォーム)と名付けた。

 「理性」についての、カントの考えはどのようなものか。カントは、「原因」と「結果」について、必要不可欠な因果関係が、人間と自然の中にあると考えた。ヒュームによると、二つのことが連続して起こっても、例えば、ビリヤードの白い球が赤い球にぶつかり赤い球が動いても、それは完全に原因と結果だとは言い切れないと述べた。それに対して、カントは、人間は「理性」により、その因果関係を知ることができると考えた。球が動くというのは、我々が知ることができる姿である。しかし、その裏には自然の法則がある。「我々の知ることのできる姿」と「自然の本来の姿」のギャップを埋めるもの、それが「理性」であると、カントは考えた。

 同時に、原因追求は、人間の本能的なものであると、カントは述べる。床にボールが転がってきて、猫がそれを追う。それを見たとき取る人間の行動は何か。猫を追うのではなく、ボールの転がってきた方を振り向くであろう。そして、その原因を知ろうとする。因果関係を知ろうとすることが、人間に生まれながらに備わっていることが、これでも分かるというのである。

 ヒュームは、人間は自然の法則から生じた結果を知ることができても、自然の法則そのもの証明することはできないと述べた。しかし、カントは、それを理性によって証明できると考えた。しかし、カント自身、人間が認識し、証明できることには、明白な限界があると考えていた。例えば、人間は草花や虫については観察を通じて知ることができるが、「神は存在するか」、「宇宙に果てがあるか」などの命題は、人間の認識できる、証明できる範囲外にあるというのである。

人間には、生まれながらにして原因を追究しよう、問いに答えようとする欲求を持っているが、人間はあくまで大きな全体の中のほんの一部に過ぎず、全体を知ることはできないのである。そして、経験することのできないことを前提とした原因の追究は、議論の空回りを起こすだけである。そうカントは考えた。

 カントによると、疑問に対して、正誤の判断をするには、その正反対の仮定を立てみるのが一番だということである。例えば「世界には始まりがあるか」という疑問に対して、「ある」、「ない」の両方の仮説を立て、どちらが「誤り」であるかを調べてみる。このような方法が効果的であるという。

 さて、哲学者なら誰でも突き当たる、「神の存在」の問題について、カントはそれを、経験をもってしても、理性をもってしても、肯定も否定もできないと考えた。そして、理性で説明できないところを埋めるのが「宗教」であり、それが「宗教」の存在意義であると述べている。言葉を変えれば、「神はいるのか」という問いは、人間の道徳のレベルでは許されない問いであり、その実用的な「埋め合わせ」として、宗教が存在するのであるという。

 ヒュームは、理性をもってしても、経験をもってしても、善悪の基準を規定することができない、それを規定するのは感情であると述べた。カントは、それだけでは不十分であると考えた。カントは、全ての人間が、生まれながらにして、全時代に通じる、実用的な道徳的領域を持っていると考えた。その道徳基準は、「一足す一は二」のような、厳密さを持ち、普遍的なものあると彼は述べる。彼はその道徳原理を、「カテゴリカルな命令形」と名付けた。「他人ならばこうするだろう、他人も同じことをするだろう」と考え、それに従って行動することが、道徳的な規則にとなるとカントは述べる。

カントの言う道徳的な規範(それは「良心」と言ってもよいのであるが)は、証明や論争の余地のないものだという。そして、その根本は、他人を手段と考えず、目的と考えることから成り立っている。

「他人に親切にするのは、自分もそうして欲しいからではないのか。」

と言う問いに対して、カントは、見返りを期待した行為は道徳ではないと述べる。あくまで、人間が正しいと思い、義務感からやったことだけが、道徳規範であると。そして、カントは道徳基準に従うことが「自由」を得ることになると考えた。何故なら、それは「自分から行う」ことであり「他人からやらされる」ことではないからである。

 デカルトは、人間は「肉体」と「理性」の二面性を持つと述べた。カントも同じく、人間は「感覚」と「理性」という二面性を併せ持つと考えた。人間は「感覚的な存在」であると同時に「理性的な存在」でもあるという。「感覚的な存在」としての人間は、自然の緒法則に支配され、自由な意志を持つ存在ではない。しかし、「理性的な存在」としての人間は、自分の中に世界を持っているのであるから、そこで自由な意志を持つことができる。

 いずれにせよ、カントは、合理主義と経験主義の対立、論争に、ある意味で終止符を打った人物であると言うことができる。

 

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