標高千八百メートル
フンシャルから三十分ほど坂道を車で登って、山の中腹にあるモンテ、文字通り「山」という名の町に着いた。ここは標高が五百五十メートル。フンシャルの街と海が眼下に見える。ここには、きれいな教会がある。この教会は、この島に亡命したハプスブルク家の最後の皇帝、カール一世のゆかりの場所で、彼とその家族の写真が展示してあった。彼は一九二二年にこの島で亡くなっている。スミレは、特に彼の子供たちの写真が可愛いと言っている。確かに、戦前に撮られた白黒写真は、何とも言えない味わいがあった。
かつては、フンシャルの街から、このモンテまで鉄道が通っていたらしい。今は、バスか車が交通手段である。しかし、昔も今も変わらない、フンシャルまで戻る別の手段がひとつある。それは、「トボガン」という橇。籐でできた二人乗りの椅子を乗せた木製の橇を、ふたり組の男が、下り坂を猛スピードで押していくのである。長年のトボガンの使用により、道路のアスファルトが風呂場のセメントのようにツルツルになっている。トボガンを押す男たちには「ユニフォーム」があるらしく、皆白いシャツにクリーム色のズボン、白いカンカン帽子。時速三十キロは出ると思う。乗っている人はかなりのスリルを感じるらしく、女の人などは悲鳴をあげている。カーブや曲がり角では減速するものの、車やバスも通る狭い山道を駆け下りて、よく事故を起こさないものだ。私はスミレに言った。
「あのトボガン、下まで行ったらどうして持って上がるんだろうね。」
モンテから更に山を登っていく。モンテの辺り、標高五百メートル前後は広葉樹が多いが、更に上がり標高が千メートルを越えると針葉樹の森となる。さらに標高が上がり、千五百メートル以上になると、木はなく、岩の間に低い高山植物が生えているだけである。標高千八百十メートルのピコ・デ・アリエイロが、遮る木がないため、曲がりくねった道の向こうに見えてくる。幸い天気は良く、頂上には雲がかかっていない。
頂上近くにドライブインと駐車場があり、そこで車を停めて少し歩いてみることにした。外に出てみる。さすがに標高が二千メートルに近いと寒い。持ってきたものを全て身に着け、外に出る。稜線の遊歩道を少し歩いてみる。眼下には、中国の桂林を思わせるとんがった山々が見え、なかなか見ごたえのある景色である。とんがった峰の間を、雲が通り過ぎて行く。
しかし、頂上に居られたのはほんの二十分ほどであった。厚い雲が見る間に近づき、霰交じりの雨が降り出した。雷も鳴り出した。隠れる場所のない稜線で出会う雷というのは、あまり気持ちの良いものではない。大学の頃、山歩きをしていたときも、稜線で雷に会ったら、リーダーはすぐに退避を指示した。
「おーい、急いで戻るぞ。」
私は妻とスミレに声をかけ、三人は慌てて坂を駆け下りて、車に戻った。
辺りがすっかり雲に覆われてしまったので、私たちは山を北方に降り、妻が推薦する次の目的地、サンタナという村へ向かうことにした。