おらのオーラ
何度も前を通った嵐電の白梅町駅。
日曜日の夕方、父母と二回目の外食をした。この前もだったが、三人で外食を試みるといつも雨になる。その日も雨の中で迎えのタクシーに乗った。店は平野神社前の和風レストラン。この店は昨年も来たが、小さな皿がチマチマと沢山並んでいて、なかなか楽しい。着いたときはまだ五時半だったが、店内はすでに八分の入り。僕たちが出る頃には、席に着くのを待っている人がいた。小さな皿に盛られた刺身、小さな茶碗蒸し、その他小鉢物を順番に片付けていく気分は日本食ならでは。ここでも父は旺盛な食欲を示してくれた。
食事を終わって家に帰ると、僕宛の電話がふたつ。ひとつは義父からで、金沢で修理に出していたソニーのパソコンが月曜日に出来上がるという。こんなに早く直るとは夢にも思っていなかった。僕は義父に、月曜日に取りに行ってもらい、宅急便で京都に送ってもらうように依頼した。二番目の電話はロンドンのスミレから。土曜日にピアノの先生のヴァレンティンの誕生パーティーがあり、それに招待されているとのこと。彼に何か「素敵なプレゼント」を買ってきてという依頼だった。国際的ピアニストへのプレゼント、何が良いかな。妻へのお土産はいつも同じで、もう決まっている。「京都のお漬物」だ。
十月二十七日。月曜日。朝起きると少し寒気がする。気をつけないと、風邪を引いての長旅は辛いものがある。ミドリに葉書を出す。ミドリには毎日一枚以上のペースで葉書を書いているが、さて、もう全部で何枚かいたのやら、思い出せない。
朝食後、父は眼科へ行くというので、母と出て行った。緑内障が始まり、それが読書家の父が最近余り本を読まなくなった原因らしい。毎日目薬を注していれば、悪化は防げるとのことだ。風邪気味だし、少し迷ったが、朝食後また近くのプールで泳ぐ。
父と話をして過ごすのだが、通常なかなか会話が始まらない。十分に一度、十五分に一度くらいの短い会話が、だんだんとつながって普通の会話になる。父は、仮に自分がまだ生きていて、来年僕が帰省しても、母も弱っているだろうから、布団も用意できないし、食事も用意できないかも知れないと言った。それが残念であり、心配でもあるらしい。
夕方ピアノを弾かせてもらうために、また自転車でサクラの家に行く。サクラは身体障害者施設で作っている「味噌」を、パック詰めするのを手伝うボランティアをしてきたと言った。ピアノを弾き始める前に、彼女と少し話す。自分の家で泊まれなくなったら、いつでもうちで泊まってもいいよと言ってくれる。有り難い。一時間のピアノの練習の後、次の帰国まで彼女に会えないと思うと、分かれるのが少し辛かった。声だけは元気に、
「バイバイ、元気でね。」
と叫んで、自転車を漕ぎ出す。
夕食に母が水餃子鍋をしてくれ、またまた腹いっぱい食べてしまう。飛行機での荷物の重量制限が三十キロなので、現在の重量を調べてみることにした。まず自分だけが体重計に乗り、スーツケースを持って体重計に乗り、その差で荷物の重量を求めようとする。自分だけの体重が六十五キロ。日本へ来てから、一日二食で通し、二日に一度千五百メートル泳いで、なおかつ、二キロは太っている。何せ、全てが美味しいんだもん。
十月二十八日。京都にいる実質最後の日だ。午前四時に目が覚めてそれから眠れない。少し寝不足の方が、明日飛行機の中で良く眠れてよいかも。昨日は風邪気味かと思ったが、今日起きてみるとその気配はない。良いことだ。
朝食後、天気が良いので、父にちょっと散歩にでも行かないかと水を向けてみるが、行かないという。それでも、午前中は父と一緒にいてまた色々話をする。父のケアマネージャーであるイイダさんから電話があり、午後に寄せていただきたいとのこと。
昼前に、パソコンが宅急便で届く。しかし、付属の電源のアダプターがないのに気づく。ロンドンに戻ってもあるかどうか定かでない。もう何年も使っていない機械なのだ。それで、寺町の電気屋まで、念のためにアダプターを買いに行くことにする。パソコンを抱えて家を出た。寺町の「タニヤマ無線」で聞くと、パソコンの型が古いので、それに合うと「保障された」アダプターはもう売っていないと言われた。
「メーカーが一緒やったら電源の差込の形はたいてい一緒やん。良く似た奴見繕って持ってきて。」
と頼むと、店員は二つのアダプターを持ってきた。両方ともしっかりしたプラスチックのケースに入っている。とにかく、ケースを開けると、「ご購入いただかなければならない」とのことだ。値段は六千円。ちょっとビビる価格だ。ままよ、六千円を払い、その場でパッケージを開いてもらい、ケーブルの一端をコンセントに、もう一方を持ってきたパソコンに差し、スイッチを押した。果たして・・・パソコンはカタカタと動き出した。
ヴァレンティンへの誕生日プレゼントは、日本の作曲家の楽譜集にした。それが彼にとって簡単すぎるものなのか、見ただけでは判別できないのだが。
新京極を歩いていると、ふたりの西洋人の女性に英語で道を尋ねられた。河原町三条のバス停でバスに乗るときに、オーストラリアのタスマニアから来た女性に、これもまた、いきなり英語で竜安寺へ行くかと尋ねられた。僕にはそんな経験が良くある。僕は別に「私英語喋れます」と書いた、桃太郎のような幟を持って歩いているわけではない。しかし、ある外人観光客は、確信を持って僕に英語で話しかけてくるのだ。家に帰ってその話を母にすると、
「あんたには、何となく、英語の話せそうなオーラが漂っている。」
といわれた。おらにそんなオーラがついているなんて、ちっとも知らなかった。水子の霊よりはましかな。
家に戻るとケアマネのイイダさんが来られていた。まだ三十歳そこそこの細身、活発、優しそうな女性だ。玄関先まで彼女を送る。
「たまに帰られると愚痴の聞き役で大変でしょう。」
と彼女の方から先制攻撃。
「でも、聞いてあげることが大切なんですよ。できるだけ聞いてあげてくださいね。」
そう言うと、彼女は自転車にまたがり、颯爽と去って行った。自転車には「洛星高校」のステッカーが。あれ、あそこ男子校なんだけど。
最後の夜は恒例のすき焼き。