うさぎ追いしかの山
ここからお母さん、H夫人の出番。
講演が佳境にさしかかったとき、
「う〜さ〜ぎ、お〜いし、か〜の〜や〜ま〜」
H先生が突然歌いだした。話の途中で急に歌に入るのって、「かしまし娘」みたいと一瞬思う。ここからは奥様のH夫人の登場。「ふるさと」の歌を手話で歌いましょうというわけだ。「うさぎ」は掌を耳の横に立てて、うさぎの耳の形を作る。これなら、聴衆のお年寄りも参加できる。なかなかよい考えだ。僕も、カメラマンの役割を演じつつ、手話での「ふるさと」を覚えた。
大爆笑のうちに講演が終わり、主催者のNさんにマイクが戻る。
「三十年後、センセがノーベル賞をもらわはったこと、センセにどないして連絡しましょうか。」
とNさん。傍の若い女性がすかさず、
「携帯もありますので。」
これは最高!この日一番のギャグ。それから数日間、僕は思い出しては笑っていた。
三時ごろに、西別院を出て、京都に戻る。もちろん、H先生は講演料をもらわれたであろうが、その他に、土地の名産の入ったダンボール箱をいただいた。サクラは車中、桂枝雀の落語をかけていた。「宿替え」だ。サクラも落語が大好きなのだ。H先生の話の内容の深さ、人間的な魅力はもちろんだが、話術においても、落語、講談、漫才で使われているような、ありとあらゆる「人を惹きつける技術」が網羅されており、医者でありながら、それらをマスターされたH先生はすごい人だと思う。その技術のうち、いくつは、僕も、顧客へのプレゼンテーションの際に使わせてもらおうかと思うほど。(次回、プレゼンの最中に突然歌を唄いだしたりして。)
京都に戻る。僕にも西別院名産品の「おすそ分け」があり、新米、椎茸、納豆と卵を貰った。注意して自転車を走らせたつもりだったが、家に着いたら卵は二個割れていた。
その日は、従兄弟のFさんに夕食に来ないかと誘われていた。Fさんは、父の亡くなった姉の息子さん。京都に残っている唯一の親戚だ。五時前にまた自転車に乗り、叡山電車の線路近くのFさんのアパートへ向かう。
Fさんは最近三人の子持ちの娘さんが同じアパートに越して来られたばかり。
「娘さんと近くなって安心ですか。」
と尋ねると、
「三人の孫が常にウチに来るやろ、うるそうてたまらんわ。」
とのこと。その日も、三人のお孫さんたちは、Fさんの家の中を走り回っていた。
Fさんは、あるスーパーマーケットの警備部門にお勤めなのだが、そのスーパーでは「阪神タイガース優勝記念セール」を企画していた。結局優勝しなかったわけだが、その代わり「阪神タイガース残念セール」というのをしたという。「残念セール」とは変なセールだが、実際は仕入れ、売り場や人員の確保をやっているので、優勝できなくても、セールを取りやめるわけにはいかないそうだ。
スーパー業界も、開店時間が長くなり、年中無休になり、客には便利になっているが、その代わり、従業員は大変みたい。正社員は少数で、殆どアルバイトで回しているそうだ。
「しょうもないことは全部ダイエーが始めよって、他のスーパーもそれに追随。その元祖のダイエーが潰れて、彼らが始めたことだけが残ってんのやからな、世話ないわ。」
Fさんは言った。どこにでもいるんですねえ。罪作りな同僚や、同業者が。
娘さんとお孫さんが変えられて、Fさんご夫婦だけになってから、主に父の話題になった。親子とは言え、十八歳のときに京都を出ている僕には知らないエピソードを、ずっと京都にお住まいで父と交流のあるFさんはたくさん知っておられた。
九時ごろにFさん宅を辞して、また北大路通りをポコポコと自転車で帰る。寒さは全然感じない。暖かい夜だった。鴨川を渡りながら、
「山は青きふるさと、水は清きふるさと」
と思わず口ずさんでしまった。
家に戻ると、父は既に床に入り、母は女子のフィギュアスケートの番組を見ていた。そこにイズミからの電話。
「英語でもう少し聴きたいことがあるんやけど、明日会えへん?」
と言うことで、翌日も彼女に「拉致」されることになってしまったのだった。
十月二十六日。日曜日、京都にいるにも後四日となった。
朝食後、衣笠のサクラとイズミの実家へ向かう。三度目だ。途中、立命館大学の中を通り抜けると近道になるので正門から中へ入る。「河合塾模擬テスト会場」という立看板が上がっており、入り口に黒いスーツをきた兄ちゃんが立っている。そう言えば、サクラの娘のマヤと、イズミの娘のユメも、その日立命館大学で模擬テストを受けているはずだ。
「受験生の方なら急いでください。」
と黒スーツの兄ちゃんに言われる。
「ドアホ、誰に向こうてモノ言うとんねん。相手見てモノ言え。」
心で思うが口には出さない。
九時四十五分からたっぷり二時間半、またまたイズミの英語に付き合わされる。難しいフレーズは「考え椅子」と名付けたソファで熟考をする。十一時ごろにお父さん、つまりH先生が出て行かれた。今日も講演があると言う。尼崎だって。ご苦労さんです。イズミが近所の円町駅までお父さんを送っている間、お母さんと何となくしみじみ話をする。高校時代から、全く時間が経っていないように思てくる。
帰り道、近くのスーパーで、娘のミドリに頼まれていた「日本の可愛い靴下」を買っていくと言うと、イズミはスーパーまで付き合ってくれた。女性の下着売り場を中年の男が独りでウロウロして「変態」だと思われはしないかと心配していたので、助かった。「家庭教師への報酬」と言うことで、ミドリの靴下代金は、イズミが払ってくれた。
お祭りと出会う。