父の教訓

 

日本と名残を惜しむきつねうどんと熱燗。

 

 最後の夜は恒例のすき焼きだった。

 鞍馬口の生母には、夕方に会って別れを告げていた。

 「最後の晩餐」に際し、英国に戻る僕に対する父の一言は「酒を飲みすぎるな」ということだった。父には完全に見抜かれている。僕は自分でも自分をコントロールすることに長けた人間だと思うが、こと酒に限るとダメなのだ。

 父はこんな話をした。父の父、祖父は僕が生まれる前に亡くなっていた。やはりお酒の好きな人だったらしい。父は、ガラスの一合徳利を持って、毎晩酒屋まで祖父の飲む酒を買いに行かされたという。あればあるだけ飲んでしまう人だから、毎日飲む分だけ買わなければならない。後どれだけ残っているか得心して飲みたいから、中の見えるガラスの徳利でなければならない。僕にはその祖父の心理が良く分かる。父よりも早く亡くなった叔父も酒の好きな人だった。酒に対するコントロール、今後の最大の課題だろうと自分でも思う。父はそんなふうに死んでいった肉親を見ているのだ。

 

 父が床に就いてから、かなり長い間母とも話した。これからは何が起こるか分からない、今から先々考えてみても仕方がない。そのときそのときの状況に合わせてフレキシブルに対応するしかないねというのが、母と僕の結論だった。

父の世話を、全て母に任せているのは、本当に心苦しいが、どうすることもできない。その時その時、自分として、できるだけのことをするしかない。そして、仮に父が亡くなった後も、母に対しても同じようにしていくしかない。

金沢に電話をして、コンピューターの修理が全て上手くいったことのお礼を言い、僕は十時過ぎに床に着いた。

 

 翌朝、十月二十九日、六時五分前に、MKタクシー、関空シャトル便のマイクロバスが坂の上に着いた。僕は、そこまで見送りにきてくれた父母と別れ、車に乗り込んだ。今回は何故かそれほどセンチメンタルには感じなかった。

マイクロバスはそのあと数箇所で、関空へ向かう客をピックアップする。僕と、もうひとりのお兄ちゃんを除いては外国人のお客さんだ。ところが、運転手が英語を話せない。

「次のサービスエリアで休憩いたします。現金でお支払いのお客様は休憩の際にお支払いください。前払いの方は結構です。クレジットカードでお支払いの方は、関空に着きましてからお支払いください。」

てなことを運転手はアナウンスする。日本語で。フランス人と、スペイン人のカップルはポカーン。しゃあないので、僕が同じことを英語で、MKタクシー株式会社に成り代わり通訳をする。運転手は、

「すんまへんな。英語がうちの会社の弱点でして。」

などと言い訳をしている。

 

 関空に到着。チェックインを済ませる。日本最後の食事はいつも「きつねうどん」で締めることにしている。うどん屋に入り、「きつねうどん」とついでに熱燗も一本注文する。父の意見は厳粛に受け止めなければいけない。しかもまだ朝である。しかし、これから最低半年の間日本を離れるのであるから、最後に熱燗の一本くらいは許されるだろう。と、酒飲みは、何かと理由をつけ、飲酒を正当化するものなのだ。

 ラウンジでは只酒が並んでいたが手はつけない。強い意思だ。

搭乗時刻が来て、ルフトハンザ機に乗り込む。ウェルカムドリンクと称して、スチュワーデスがシャンペンを持ってくる。せっかくだからと思い、グラスを受け取り、グラスを半分飲み乾す。そうすると、別のスチュワーデスが、

「お客様、もう少しおつぎしましょうか。」

と勧めにくる。それじゃあということで注いでもらう。飛行機の中で飲まずに過ごすのは難しい。機内食に寿司が出たが、イクラが海苔ではなく、ダイコンで巻いてあった。金沢での母のコメントを思い出す。この機内食を作ったシェフは結構有名な料理人かも。

 

 飛行機の中では父にもらった睡眠剤の助けも借りて五時間ほど眠った。現地時間の昼過ぎにフランクフルト着。乗継のロンドン便までに数十分あるので、待合室のソファに座り、目を閉じる。自分としては、数秒ウトウトしただけのつもりだったが、実際は一時間近く経っており、予定のロンドン行きは出発した後だった。発券カウンターに行き、一時間後の次の便に振り替えてもらう。ヒースロー空港に迎えに来てもらうはずの妻に電話を入れ、一時間遅れる旨を伝える。

 午後六時、(日本はもう午前三時だ)ヒースロー空港で妻と出会い、家に戻り、半分眠りながら荷物を片付けてからベッドに入る。

 

翌日は六時に家を出て仕事だ。午前中はまだ良いが、日本が真夜中にかかる午後からは、集中力がないどころか、起きているのさえ辛い。半分眠っているところに、デスクの電話がなった。女性の声だ。そしてドイツ語。九月に心の調子を崩して入院、僕がピンチヒッターとして彼女の代わりに働いたドイツの同僚。

「ハロー、モト。今週から働いてるの。」

「それは良かった。で、問題は解決したの。」

「ううん、全然。でも、問題から逃げないで、ボチボチその問題と向き合っていくことに決めたの。」

「それは良いことだ。最高のニュースだ。おめでとう。」

彼女の復帰は、休暇から戻った僕にとって、最高の歓迎だった。

 

座席にはウェルカムドリンクのシャンペンが置かれていた。

 

***

 

筆を置くにあたり、父と母が一日でも長く、一緒に、助け合って暮らしていけることを願わずにはおれない。また、それより少し若い人世代の人たち、義父母、生母、H先生ご夫妻、Gくんのお母さん(もちろんお父さんも)、八十三歳の運転手さんが、一日も長く元気で活躍されることを望む。そして、デイサービスの職員の皆さん、ケアマネのイイダさん等、父の生活を支えてくれいる人々にお礼を申し述べたい。また、旅行中お世話になった全ての方にも、心からお礼を申し述べたい。

そして、最後の最後に、主婦業との両立、体調の維持は大変だろうが、イズミが大学院での学業を続け、無事「修士」なり「博士」なりの学位を修得されることを切に祈っている。

 

(了)

 

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