思わぬ愛読者

 

京都駅に到着!関空特急の前には城崎温泉行きの列車が停まっていた。

 

食事の後再び眠りに落ち、気がついたら、スチュワーデスの姉ちゃん、いや客室乗務員がもう朝食の準備をしていた。(食欲がなくほとんど食べなかったが。)七時間近く眠ったことになる。父にもらった睡眠剤は本当に良く効くので助かる。

 

飛行機は定時の朝八時半に関空着。九時二十六分発京都行きの特急「はるか」に乗れた。十一時過ぎに京都の自宅に着く。父はいたが、母は不在だった。

父は開口一番、

「長生きしすぎた、もうぼちぼち死にたい。」

と言った。これまで、父は本か新聞を読むか、テレビを見るか、何らかの「活動」をしていることが多かったが、今日の父は台所のソファに座ったまま、同じ姿勢でずっと動かない。父と母は再婚で十歳以上歳が違う。父はその歳の違い、それによる体力の違いを母がなかなか理解してくれないと嘆いた。その気持ちも分かるが、母との歳が一回り近く違うために、母が父の世話を出来ることも確かだ。いずれにせよ、これまで何十年と保たれていた、「持ちつ持たれつ」という夫婦間のバランスが、父が動けなくなってきたことにより崩れつつあるのは確かだった。

 

翌週、心臓の専門医に会うために病院へ行くことになっていたので、転入届を出し、健康保険証をもらっておかなければならない。自転車で北区役所へ向かう。外はおそろしく暖かい。気温が二十五度ちかくあるのではないかと思う。ロンドンの「真夏」の気候だ。

 

区役所の帰り、大徳寺前のG君の実家の前を通りかかったので、お母さんに挨拶をする。G君には昨年僕が、そして、今年は末娘のスミレがガダルカナル島でお世話になっている。G君のお母さんは、お年寄りを集めたデーサービス施設でボランティアをしておられる。

「最近、わたしよりうんと若い人が、ボケて施設に入って来はりますねん。」

お母さんはそうおっしゃった。そこでも高齢化社会は進んでいるらしい。しかしG君のお母さんが、まだ他人の世話をできるくらいお元気なことは、大変素晴らしいことである。

「川合君、これ、見とくれやす。」

そう言って、お母さんは灰色の分厚いファイルを二冊出してこられた。

「これ、皆、川合君が書かはったエッセーですねん。印刷して綴じてたらこんなになりました。」

G君のお母さんの頭に一瞬後光が射した。

 

実は、数ヶ月前、僕のエッセーのホームページ(HP)を配信していた業者のサーバーコンピューターが壊れた。まあ、機械だから時々故障するのは仕方がない。それで、しばらく僕のHPは閲覧不能になっていたわけだ。しかし、数週間して新しいサーバーが用意されたときには、中身は空っぽ、スッカラカンのカン。業者は一から入れ直しておくれやすと言ってきた。他人様のデータを扱う身でありながら、そのバックアップ(非常用のコピー)を全然取っていなかったのだ。有りがちながら、ひどい話だ。

「なくなったもんはしゃーない。」

僕は仕方なく、自分のコンピューターから何百というエッセーを業者に送り始めた。そこでまた、ハタと気がつく。多くのエッセーは古いソニーのコンピューターに格納されているが、それは壊れてしまってここ数年動かないのだ。つまり、僕の書いたエッセーのうち数百が、永久に失われてしまう可能性が極めて高いということ。ガーン。これはショックでっせ。文章を書く人間にとって、書いた文章にはそれぞれ愛着がある。それを失ってしまうことほど、寂しいことはない。

 しかし、まだ希望が絶たれたわけではない。考えられる処置がふたつある。

一)誰か、エッセーを紙に印刷してくれている人を探し出し(そんな奇特な人がいればの話だが)、それをスキャンしてまたコンピューターに入れる。

二)古いコンピューターを費用がいくらかかろうが何とか修理し、そのディスクの内容を取り出そうというものである。それで、今回はロンドンより「動かないコンピューター」を手荷物で持って帰ってきていたのだ。

 エッセーを紙に印刷して読んでくれている人、つまり画面で読むのに慣れていない古い世代の読者として、うちの父と金沢の義母が有力候補者に挙がっていた。しかし、まさか全部が保存されているわけでもあるまい。いくつかが失われることは覚悟しなくてはならない。しかし、ここに、神様のような人が現れた。G君のお母さんのファイルは、失われたエッセーの殆どを救ってくれることになるであろう。G君のお母さんには、ひょっとしたらファイルをお借りすることになるかもと伝えて、その場を辞した。

 

僕の心は急に軽くなった。真ん中の娘のミドリには毎日便りを出すと約束していたので、そのための切手と葉書を買いに郵便局へ立ち寄る。産みの母の住む鞍馬口にも立ち寄る。帰宅して父と一緒にいると、母(継母)が帰ってきた。こんな場合、「ただいま」と言ってよいのか「おかえり」と挨拶してよいのか迷う瞬間だ。

 

 夕方五時。僕は、近くの銭湯「船岡温泉」に行き、一時間掛けてのんびりと風呂に入り、旅の疲れを落とす。六時に戻ると、手巻き寿司の用意ができていた。銭湯の帰り道コンビで買ってきたビールを飲みながら食べ始める。歯のない父のために、父の分だけ刺身は細かく切られていた。父は、それを少し食べにくそうにしながらも、結構の分量を食べている。他人には分からない痛みはともかくとして、少なくとも食欲も関しては、大丈夫そうだ。

 

 夕食後、食堂のテレビの前のソファでウトウトする。一瞬記憶が遠のく。薄目を開けると、父と母の姿が見える。僕は自分が夢を見ているなと思う。普段、父母の姿を見ることはないからだ。ちゃんと布団に入って寝ようと思って、もう少し目を開けた。依然父母の姿が目の前にある。

「そうや、今日は京都にいるんや。」

改めてそう思う。眠くてたまらない。友人の何人かに電話しなくては、と思いつつも八時前には布団に入り、直ぐに眠ってしまった。

 

鴨川ではお姉ちゃんたちがサッカーの練習をしていた。

 

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