第一章 オーメン

 

 その日の午後もロンドンの事務所で、僕はユーザーからの苦情電話を受けていた。ここはロンドンの中心シティーにある自称「世界に羽ばたく」M機械工業のヨーロッパ支局。そろそろ一日の疲れが出てくる、午後四時を回った時間である。背中に春の西日を浴びながら、僕はあくびを噛み殺した。電話はドイツの営業所から。口うるさいことで社内では有名なドイツ人の所長。彼のドイツ語訛りの英語を聞く。推察するに、苦情の内容は「画面の支払い条件の項目に、支払い猶予期間が二桁しか入らない」と言うことらしい。

「ローゼンタールさん。私はコンピューターの担当なのです。支払い条件のことなら経理担当者に言って下さい。」

僕は英語でそう答え、自分の斜め向かいにいる、同期で経理担当のジミー横山に苦情の矛先を向けようとした。

ジミーと言うのは会社での彼の呼び名である。日本人が赴任すると古参総務課長のキャサリンおばさんが本人の意向など無視して勝手に英語の呼び名をつけてしまう。横山は「肇」という名前なのだが、「ハジメ」と似ていると言うので、「ジミー」と名付けられてしまった。本人は嫌で仕方がないらしい。ちなみに僕は「幹」と言う名前から「ミッキー」と呼ばれている。これならまだ許せる。

紙の上に何かグラフらしきものを書いていた横山は僕の会話を聞くと、慌てて手にしていた鉛筆と定規で、吸血鬼に対峙する時のような十字架を作り僕に向け、

「オーメン」

と言った。それ、何時のギャクだよ。この状況において、全く意味不明である。彼は鉛筆と定規を急いで机に投げ出すと、あっという間にドアの外に消えてしまった。

「くそ、横山め。逃げやがって。」

ドイツ人の所長は

「この支払い条件でもう顧客と契約して決めてしまった。どうしてもコンピューターに登録しなくてはならない。そのためにはコンピューターの画面上の至急桁数を一桁増やしてもらわねばならない。なぜならば、この顧客は特別で、何故特別かと言うと・・・」

とドイツ語訛り英語で食い下がってくる。そのしつこさと、横山の態度の両方に頭に来た僕は、言葉をそれまでの英語からドイツ語に切り替える。頭の中で言葉が切り替わるカシャッという音が聞こえた。

「あんた、物を売るだけじゃなくて、金を回収するのも所長の仕事だろ。物を売っておいて百日も後に金を受け取るなんて悠長なことを考えないで、もうちょっと真っ当な商売をしたらどうだい。」

と僕はドイツ語で叫ぶ。相手は一瞬絶句。十秒後に、

「もう、あんたには頼まない。これから支局長に直接電話をいれるから。」

やはりドイツ語に戻ってそう叫び、ローゼンタール氏は電話を切った。やれやれ。ユーザーの電話をいちいち親身になって聞いて、その通りにコンピューターを調整していたら、担当者は一日が四十八時間あっても足りない。

 

 しばらくして、席を立った横山が戻ってきた。この野郎。僕が何か言おうとする一瞬前に彼は先手を取り、

「川口、支局長がお呼びだよ。」

と言った。

「やれやれ、あのドイツ人のしつこいおっさん、もう支局長にチクリやがった。」

横山にそう答えると、僕は事務所を横切り、突き当たりの支局長室の扉を二度叩き、返事を待たずにドアを開けて中へ入った。支局長室は壁も、机も、書類棚も、皆赤いマホガニーの木目調で統一されている。ただ、それが本当のマホガニーではなく、合板にマホガニー木目を印刷したものであることは、会社の誰もが知っている。僕の机に比べて二倍半の面積はある机の向こう側に、藤本支店長のゴルフ焼けした額が壁や机と同じ赤マホガニー色の光沢を放っていた。ちなみに支店長の呼び名は「マック」である。

「実は、ドイツの話なんだがね。」

赤ら顔のマック藤本は話を始めた。さあ、おいでなすった。

「川口君。君はドイツ語が話せるそうだね。」

あの親爺、僕がドイツ語で悪態をついたことまで告げ口しやがったな。

「はい、大学の時にドイツ文学を専攻しており、学生の頃ドイツに何回か旅行したこともありますので。」

 子供の頃から僕は映画が好きだった。いや、映画の中に映し出される外国の町並みが好きだったと言って良い。と言ってもそれはアメリカやヨーロッパの町並みなのだが。そして、一度で良いから、その中に自分を当てはめてみたかった。大学受験の時、関西と関東の外語大を受けた。関西の方はスペイン語、関東の方はドイツ語で受けた。その選択に深い意味はない。とにかく自分の実力に合った学科がそこだったのだ。結局関東のドイツ語に合格し、一年の留年を入れて五年間ドイツ語を勉強した。一年の留年は、リュックサックを背に半年間ドイツ国内を放浪していたためである。大学を卒業して、M機械工業に入社したのも、国際企業で、必ず海外駐在があると踏んだからである。予想は的中、二十代の最後の年に僕は英国にあるヨーロッパ支局派遣の辞令を受け取り、二年前にここにやってきた。

それにしても、ドイツ語をやっていた僕が、どうして今コンピューターの担当をしているのだろう。自分でも時々不思議になる。M機械工業の「固定概念に囚われない人事」ということらしいが、要するに、行き当たりばったりなだけではないのかとも思う。僕が現在英国で働いていることも、その人事の結果であろう。

藤本支局長の話は、僕の予想していたのとは違った方向へと進んだ。

「実は、我が社はドイツのW市にある部品メーカーS社を買収に成功し、来月一日付けで、それが発表されるんだ。それで、来月から我が社からそのS社に経営陣を送り込むことになっている。」

そう言えば、我が社が苦手としている鋳造部品部門を手っ取り早く強化すべく、ドイツのどこかの会社を買収しようとしていると言う噂は聞いたことがある。

S社の社長には、今フランスにいる山本君になってもらうつもりなんだが、もう一人、向こうの言葉が喋れる人間に、山本君のアシスタントとして最初のうちその会社にいてもらいたいんだ。」

藤本支局長は続けた。

「川口君。きみは、ここではコンピューター担当だが、それだけに、我が社の全部門の業務も一通り知っている。おまけにドイツ語も喋れるみたいだし、私は適任だと思うのだが。」

ずっとドイツで働いてみたいと思っていた僕は、ここで

「ドイツへ行けるぞ、ワーイ」

と叫び出したくなるのを抑えて、再び藤本氏の話を聞く。出来るだけ、ニュートラルな表情を心掛けるが、どうしても頬の筋肉が思わず緩んでしまう。

「期間は一年程度を予定している。きみのご家族には悪いが、単身赴任になってしまうけれど。どうかね。」

「行きます、行きます、行きます。」

一回で良いものを、僕は三回も繰り返してしまった。

「それで、僕がいない間、ここのコンピューターの仕事は誰がやるんですか。」

僕は、ここで職業上の責任感を少し取り戻して支局長に質問した。

「経理の横山の兼任なんかどうだろうね。あいつはコンピューターの知識もあるみたいだし。」

「そうです。いい考えです。コンピューター担当の私が見ても、ときどきキラリと光るような指摘をしてくれます。彼にやってもらいましょう。そうしましょう。」

 その時、藤本支局長の机の電話が鳴った。電話が鳴ったら三回以内に受話器を取れ、と普段から口うるさい僕の上司は、自分でもそれを実行した。相手は英語を話しているらしい。鼻にかかった「アーハ、アーハ」という相槌を支局長はしきりに打っている。僕はその「アーハ」を聞くといつも背中に寒気を感じる。

「ミスター・ローゼンタール」

藤本氏は、ここで一息置いた。電話の相手は、先ほどのしつこいドイツ営業所長である。

「納品してから、百日以上も代金を回収しないのはよくありません。私はアクセプトできません。もう一度顧客とネゴシエーションしてください。」

そう言って、支店長は電話を切った。

私は、舌を出しながら支局長室を出た。

 

家に帰り、妻と子供たちに、来月からしばらくドイツで働くと告げた。

「えー、お父さん、毎晩帰って来ないの。つまんない。」

と娘が言った。

「飛行機で一時間だから、週末には帰ってくるよ。」

僕は娘を慰める。妻は、

「ドイツ好きのあなたの願いが叶ってよかったわね。ずっとドイツ語をやってきて役に立つときがやっと来たわね。行ってらっしゃい。」

と、かなりあっさりした受け止め方をしてくれた。さすが、日本のサラリーマンの妻である。

 二週間後、翌月の初め、僕は、ロンドンから一時間の飛行機の旅の後、初夏のデュッセルドルフ空港に降り立った。