四百年前のユーモア
語り合うロザリンドとオーランド。グローブ座のHPより。
しかし、舞台との距離が近いというのは良いものだ。俳優の顔、表情がよく見える。舞台上の俳優というのは、本当に表情が豊かだ。口だけなく顔中で喋っている、そんな感じがする。実際は大変なのであろうが、見ていると、実に楽しそうに演技をしている。
これまでにも何度かシェークスピアの芝居を見る機会はあった。いずれも、シェークスピアの生地、ストラトフォード・アポン・エイヴォンにある「ロイヤル・シェークスピア劇場」で。そこは大きな劇場、舞台装置も大掛かり。なかなかスペクタクルな演出があり、それなりに楽しめた。
しかし、大劇場では舞台までの距離は遠い。俳優の表情までは見えなかった。ここグローブ座のように、俳優の汗、ときには唾も飛んでくる状況で、同じ目線の高さで、手を伸ばせば触れる距離で演技する役者を見るというのは、思いのほかエキサイティングなものである。
今日の演目「お気に召すまま」は一五九九年から一六〇〇年、つまり日本で言うと、「関が原の合戦」の頃に書かれた喜劇、コメディーである。シェークスピアの戯曲は、「史劇」、「悲劇」、「喜劇」に大別されているとのこと。「じゃじゃ馬ならし」(The Taming of the Shrew)、「空騒ぎ」(Much Ado
About Nothing)などが、「お気に召すまま」と並んで有名な喜劇である。「ベニスの商人」も何と喜劇の範疇に入る。
ともかく、「喜劇」であるからして、当然のことながら、ワハハと笑って、ストレスを発散させる目的で書かれ、演じられた芝居なのである。しかし、今日演じられるに当たり、
「四百年前のユーモア、笑いのエッセンスを基に作られた話で、現代人が笑えるのか。」
と言う点が問題となると思う。しかし、実際これが結構笑えるたである。もちろん、その理由のひとつは、四百年後の人をも笑わせる台詞を書いた、シェークスピアの偉大さであろう。しかし、もうひとつには、芝居というものの本質があると思う。言葉以外の部分、つまり台詞だけではなく俳優の表情、身振り、間で笑わせる部分が多いから。正直言って、話されている英語を(しかも四百年前の英語を)、僕は半分も理解できない。それでも、かなり笑えた。(ネーティブ・スピーカーの人たちは、ずっと笑い転げていたが。)
さて、「お気に召すまま」の物語を、少し追ってみよう。
冷酷非情のフレデリックは、公爵であった自分の兄を追放して現在の位置に就き、公爵領を治めている。追放された兄は、アーデンの森の中で亡命生活を送っている。公爵領に住む若者オーランドは兄と大喧嘩をし、兄の告げ口により現公爵フレデリックの怒りに触れ、公爵領から追放され、森へ逃れる。追放された元公爵の娘ロザリンドは、最初公爵領に留まることを許されるが、結局は追放され、彼女も森へ向かう。彼女の身に同情を寄せた現公爵の娘シリアと、道化師のタッチストーンがロザリンドに従う。オーランドは、その前に一度、宮廷でロザリンドに出会い、彼女に激しい恋心を抱いていた。
お分かりいただける?とにかく、そんな感じの出だしなのである。
隣でやはり立って見ていたきれいなお姉さん。