「兄の選択」

原題:Am Beispiel meines Bruders

2005

 

 

<はじめに>

 

 題名は「私の兄の場合において」という意味であるが、兄だけではなく、ウヴェ・ティム自身の家族、父母、そして姉の物語である。おそらく全て実話なのであろう。「カレーソーセージの発見」に、レーナに頼まれて、こわごわ毛皮の外套を縫う親爺が出てくるが、あれはティムの父親だったのである。と言うことは、「カレーソーセージ」の話も、あながちフィクションではないのではないかと思ってしまう。どこまでが事実で、どこまでが創作なのか。その辺りを、作者に直接聞いてみたい気がする。

 

<ストーリー>

 

 兄、カール・ハインツ・ティムは「私」が三歳の時に死んだ。「ヴァッフェン・エスエス」(ナチス武装親衛隊)に志願した兄は、ロシア戦線に送られ、一九四三年八月、負傷し、両足を切断される。そして、ドイツ送還を目前に、ウクライナで死亡したのだ。兄の遺品が届けられる。その中に兄が戦場で記した、一九四三年二月から、負傷するまでの日記があった。

 「私」は長い間、兄について書こうと考えていた。しかし、家族についての文章を公表することは憚られていた。父が死に、母も亡くなった今、私は兄についての文章を書こうと決意する。

 兄は子供の頃は病弱であったが無事成長する。両親から、特に父親からは、男の子と言うこともあり、期待されていた。十五歳年下の「私」は両親にとって「遅れてきた子供」であった。両親の期待は一身に兄に集っていた。特に、第一次世界大戦に従軍し、名を上げるたかった父は、兄がヴァッフェン・エスエスに採用され、活躍していることを誇りに思っていた。

 戦場で書かれた兄の日記には、仲間の生死については頻繁に書かれていたが、彼が戦いで殺した相手方の記述は、驚くほど少なかった。

「一九四三年三月二十一日。ドネツ河に架かる橋の上。七十五メートル前方に煙草を吸う露助の野郎を発見。マシンガンの餌食とする。」

そんな記述を見つけ、私は愕然とする。そして日記は、

「これでもう日記はやめよう。次々と起こる、これほどまでに残酷なことを文にするのは意味のないことに思える。」

そんな記述で終わっていた。その数週間後、兄は負傷し、両足を切断され、さらにその数週間後にウクライナの野戦病院で死亡した。

兄の戦死の報に、両親、特に父親は大いに落胆する。そして、ハンブルクの家も空襲で全壊。そして敗戦。残された家族、両親、姉、「私」の四人で、焼け跡に僅かに残った建物の一部で生活を始める。

 父は、焼け跡で、毛皮用のミシンを発見する。戦前、軍隊に行く前は、剥製職人として動物の剥製を作ることを生業としていた父は、その経験と、見つけてきたミシンを利用し、毛皮のコートを縫う職人として身を立てることを考える。最初の仕事を、苦労の末に何とかこなした父は、(この仕事は「カレーソーセージ」のレーナおばさんからのものであった!)端正な容姿と得意の話術もあって、女性客をつかみ、店は繁盛を始める。一家は新しいアパートに移り、店では何人もの職人が働き、父は、一度は当時としては珍しい車をお抱え運転手付きで乗り回す身分となる。

 しかし、「戦後」が終わり、安い労働力のある国からの輸入品が出回るにつれて、父のビジネスは斜陽となる。父は、資金繰りに苦しみ、酒に逃れ、ある夜、店の中で倒れ、死亡する。

残された母は姉と共に、父の死後、店を切り盛りして、それからの二十数年を独り身で暮らす。裕福な家に生まれた彼女であるが、その頃には、すっかりたくましい女性に変わっていた。婚期を逃した姉は、独身を通すが、七十歳を過ぎて、ひとりの引退した医者と知り合い、そこでやっとパートナーに恵まれる。

 私は、一度は父の跡を継ぐつもりで、毛皮職人の資格を取るが、文章を書く夢を忘れられず。ブラウンシュヴァイクの学校で大学入学資格を取り、大学で文学を勉強するために、ハンブルクを離れ、ミュンヘンで暮らすようになっていた。

 母親にはひとつの願いがあった。それはウクライナの息子の墓を訪れること。しかし、当時の社会情勢ではそれがままならない。結局七十三歳の時に、母はバスでロシアを旅行する機会を得る。しかし、近くまでは行きながらも、息子の墓を訪れることはできなかった。

 母も姉も亡くなった。社会情勢も大きく変わり、ドイツ人がウクライナを訪れることが出来る時代になった。兄に関する文章を書く準備をするうちに、「私」は母の遺志を継いで、兄の墓を訪れることを思いつく・・・

 

<感想など>

 

 はっきり言って、読みやすい本ではなかった。「カレーソーセージの発見」は、ウィットに富んだなかなかの話だった。私がピアノを習っているドイツ人の先生、ヴァレンティンにも「カレーソーセージ」の本を貸してあげたが、彼もなかなか良い話だと気に入っていた。それに比べるとこの本はかなり固い。

 

 第二次世界大戦中のドイツ軍には、通常の軍隊である「国防軍」(Wehrmacht)の他に「武装親衛隊」(Waffen-SS)という志願兵からなる組織があった。これは言わば、軍隊の中のエリート集団と言える。ユダヤ人の強制収容所の監視などを担当し、「ホロコースト」の一端を担ったのもこの集団である。

「私」の興味は、「何故、兄が武装親衛隊に志願したか」というところから始まる。そして「兄は、戦場で敵を殺戮するとき、どのような考えでいたのか」という疑問に行き着く。あらゆる角度から、あらゆる分析がなされる。もし、兄がユダヤ人収容所の担当になっていたら、その考えは、「私」を苦しめる。そして、「私」は、兄の日記の最後の行、

「これでもう日記はやめよう。次々と起こる、これほどまでに残酷なことを文にするのは意味のないことに思える。」

に、兄には最後まで人間としての感情を失っていないことを感じ、それに救いを感じる。

 

 登場するのは、兄だけではない。父母、姉もまんべんなく登場。どちらかと言うと、父親の記述が兄よりも多いくらいである。そういう意味では、この本は、ティム一家の戦中から戦後にかけての伝記と言えるであろう。また、終戦直後のドイツの様子を伝えるエピソードが豊富で、その中には父母から聞いた同じ頃の日本の話と共通点もあって、なかなか興味深い。

 空襲で家が火に包まれたとき、姉が何とかひとつの箱だけを家から運び出す。彼女はその箱に宝石類などの貴重品が入っていると思ったのである。しかし、箱を開けてみると、その中にはクリスマスツリーの飾りが入っていた。これに良く似た話を、一九四五年三月十日の東京大空襲を経験した母から聞いたことがある。

 

 「私」は、「何故当時のほとんどのドイツ人が、戦争に協力したか」その問題について色々分析をしている。例えば、

「ユダヤ人である隣人が連行され、まさに『消滅』してしまったことについて、殆ど全てのドイツ人が見て見ぬ振りをし、沈黙していた。そして、戦後も、その『消滅』した人たちがどこでどのように亡くなっていたかを知っていたのに、多くの人たちは黙りとおした。

その沈黙こそ、ドイツ人の最大の過ちである。この死者のような沈黙は、『我々は何も知らないでやったんだ』という自己正当化のための長口上よりも、より恐ろしいものなのだ。」

102ページ)

「私」はプリモ・レヴィという人物の書いたこの文を引用している。

残念ながら、その分析はどこかで聞いたことのある印象が強い、悪く言えばステレオタイプのものが多い。家庭や学校での体罰が、結果的にドイツ人を残虐な故意に走らせる潜在的な原因となった、などと言う分析は、私の目から見ると賛同できないものである。

 

 私の父の兄弟も三人、第二次世界大戦中に戦死している。フィリピンのレイテ島で亡くなった、父の弟は、おそらくこの本の「私」の兄と同じくらいの歳であった。どんな人だったか、この本と同じように、調べてみたいような気がする。

 

 「カレーソーセージ」を読んだ人には、その背景がよりよく分かってまだ面白いが、この本だけ読むと、少し失望すると思う。

 

20076月)

 

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