もし京都にずっといたとしたら
落ち着いた薄緑色の市バスが京都の街に合う。
三月二十五日。朝サクラより電話があり、彼女のお母さんが社会保険京都病院で今日手術をされると聞く。その病院は、僕が帰省して最初に行った病院、家から歩いて十分、自転車で五分の距離である。慌てて母に筆と便箋、封筒を出してもらい、お見舞いの手紙を書く。ロンドンのチョコレートを包んで、病院に向かう。受付でH夫人の部屋を聞く。
「お見舞いは午後三時以降なんですが。」
と言われるが、
「家族です。」
と答えて通してもらう。イズミとサクラのお母さん、H夫人は、六階の個室に、右手を肘から指先が少し見える程度の長いギブスをしてベッドに横たわっておられた。
「あら川合くん。」
お会いするのは数年ぶり。しかし、驚かれた様子もない。手術は午後三時からだと言う。イズミの家には高校生のとき頻繁に出入りしていたが、お母さんには随分世話になった。僕はこのお母さんに結構好かれていたと思う。その時、イズミのお姉さんのサクラとも知り合ったわけである。
「もう病院は嫌。手術が済んだら、すぐにでも家に帰りたい。」
とH夫人。父も言う。僕も入院して思った。病院は療養するのに最良の場所ではないと。身体に管や電線が付いていない限り、家にいるのが一番だと思う。H夫人が早く家に戻れるのを祈るとともに、自分の父には一日でも長く自分の家にいてもらいたいと思う。
病院はいつも利用する地下鉄鞍馬口駅の前にあった。僕は計四回H夫人を見舞った。
「ケベ(僕の高校時代のあだ名)が、一番母の見舞いに来たかも知れん。」
後になってイズミが言った。
ともかく、その二十五日は、病院からそのまま自転車で、元田中に住む、従兄弟のFさんに挨拶に行く。Fさんは京都市内に唯一残っておられる親戚である。僕もロンドン、姉も福岡、その他の親戚も殆ど京都に外である。と言うことは、高齢の父にもし何かがあったときには、Fさんのお世話にならねばならない可能性が極めて高い。もちろん、親戚付き合いは、そんな利害関係だけではないのであるが、毎年京都に帰った時には、Fさん御夫婦のお宅に寄り、ちょっとしたお土産を渡し、話をすることにしていた。叡山電車の線路の近くのFさんのマンションには、ふたりの娘さんが孫たちを連れてきておられた。四人の幼い女の子たち。Fさんと奥さんが言われた。
「託児所かと思たやろ。」
昼食をご馳走になる。昼過ぎ、特に行く場所もない。天気は良く暖かい。僕は鴨川の堤防を降り、ベンチに横になった。空を見つめ、ヒバリの声を聞きながら、もし僕が、ずっと京都にいたならば、どんな生活を送っていただろうかと考えた。それを後になって後悔しただろうか。ずっとここに居続けたい、そう思ってしまう魅力が京都にはある。
天気の良い午後、鴨川にて。