「ミラノから来た悪魔」
Der Teufel
von Mailand
2006年
<はじめに>
童謡や童話の中の出来事が、実際に起こっていく。横溝正史の小説にもあったような気がする。アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」もそんな筋書きだった。この物語、筋立てはそれなりに面白い。ただ、余りにも沢山のテーマを詰め込みすぎて、ストーリー全体が散漫になっている気がした。
<ストーリー>
夫と別れて独り暮らしを始めたソニア・フライは、酒場で出会った男たちに誘われ、麻薬のLSDを試す。その結果、匂いや音に「色」を感じるようになる。彼女の元夫、フレデリックは銀行のディーラーであったが、彼女に暴力を振るい、現在は警察に逮捕されていた。夫の母は弁護士を通じてソニアに、訴えを取り下げるように圧力をかけるが、彼女はそれを拒否し続けている。
ソニアは、新しい生活を始めるために、若くて美しい女性事業家バーバラ・ペータースが始めたクアホテルで、理学療法士(フィジオセラピスト)として働くことにする。彼女はオームのパバロッティを連れて、電車とバスを乗り継ぎ、山の中のクアホテル「ガマンダー」に向かう。
バーバラが古い建物を買い取り、全面的に改装してそのシーズンから営業を始めたホテルのプールで、ソニアは、同僚のマニュエル、フェリックス夫人と三人で、逗留客へのマッサージを担当することになる。
新しくできたホテルに対する村人たちの反応は、概して好意的なものではなかった。村人は保守的で、それでいて好奇心が強かった。彼らはホテルとその宿泊客、従業員を仔細に観察する。露骨に反感を表す村人は居なかったが、村人たちの視線は、ソニアを不安にさせた。彼女は、自分の不安を、携帯のテキストメッセージで、親友の女性、マルに伝える。
ホテルが営業を始めて間もなく、奇妙な出来事が次々と起こり始める。
先ず、ロビーに置かれていた観葉植物のゴムの木がが、一夜にして全て葉を落としていた。何者かが、強い酸を木の根元に注いだのだ。
更に、ソニアが朝起きて、プールへ行くと、プールの底に赤い発光灯が沈められていた。また、夜警のカヌートが、昼間に、誰かの代わりをするように命令されてと言って、出勤して来る。カヌートは結局、ゴムの木の事件、プールの事件とも合わせて、職務怠慢ということで、解雇されてしまうのだが。
ある朝、ソニアが目を覚ますと教会の鐘が十二回打った。何者かが、教会の時計を狂わせたのだ。
バーバラのパトロンと思われる「上院議員」がホテルを訪れる。ソニアはそのミラノから来た客が乗ってきた銀色の車の横を通る。車に薄っすらと積もった埃の上に「ミラノから来た悪魔」という文字が書かれていた。
ある日、同僚のマニュエルの為に図書室に本を返しに行ったソニアは、机の上に開いてある、「ミラノから来た悪魔」という本に目を留める。その題に惹かれた彼女は、その本を持ち出し、夜寝る前に読み出す。それは、貧しい山羊飼いの少女ウルジーナの話だった。
貧しい家の少女ウルジーナは、九歳のとき、夏の間村人から託された山羊の面倒を見るため、山に上がり、小屋で生活するようになる。その年は特に天候が不順で、小屋で暮らす彼女は、凍死寸前になる。彼女は、自分を助けてくれるなら、悪魔に魂を売ると言う。果たして「ミラノから来た悪魔」が現れ、彼女を助ける。天候は回復し、山羊は太り、彼女は無事に山を降りる。彼女は「ミラノから来た悪魔」に魂を取られることを覚悟する。しかし、悪魔は彼女をすぐには取って食わないと言う。悪魔は条件を付け、その条件が成就したときに初めて、彼女の魂を奪うと言う。
夏に秋が来たとき
昼に夜が来たとき
水の中で火が燃えたとき
夜明けに時計が十二時を打ったとき
鳥が魚になったとき
獣が人間になったとき
十字架が南を向いたとき
そのときにはお前はわしのものだ
ソニアは、これまで起こった奇妙な事件と、悪魔が少女に示した条件の一致を知り、驚く。
ゴムの木の葉が落ちたこと、それは夏に秋が来たことを意味する。
夜警のカヌートが昼間に出勤してきたこと、それは昼に夜が来たことを意味する。
赤い発光灯がプールに投げ込まれていたこと、それは水の中で火が燃えることを意味する。
そして、教会の鐘は、確かに夜明けに十二回時を告げた。
数日後、ソニアが朝の散歩から戻ると、オームのパバロッティが部屋から消えていた。胸騒ぎを覚えたソニアは、プールにある熱帯魚の水槽に向かう。オームは水槽で溺れ死んでいた。
「鳥が魚になったとき」
それから更に数日後、バーバラの飼い犬が姿をくらます。翌日、犬は発見されるが、人間と同じような服を着せられていた。
「獣が人間になったとき」
村の牧場から牛乳を集めて回る仕事をしている、レト・バツェルという三十男がいた。彼は散歩中のソニアに何度か付きまとい、いわゆるストーカーと思われる人間だった。そのレトが、雨の降る山道で車をスリップさせて事故死する。彼は、ホテルのマスターキーを持っていた。警察は彼をこれまでの奇妙な事件の犯人と断定する。これで、「ミラノから来た悪魔」は葬り去られたと誰もが考えた。しかし、そうではなかった。
ある日、ホテルの壁に掛かっている十字架が逆さになっていた。
「十字架が南を向いたとき」
悪魔の最後の条件が成就したのだ。悪魔はレトではなかった。あるいは悪魔はひとりではなかったのだ。しかし、悪魔と契約した女性は誰なのだろうか。そして、最後の条件が成就した今、その女性に何が起きるというのだろうか。
<感想など>
ソニアは半ばやけくそで試したLSDの後、匂いや音が見える、つまり匂いや音に色を感じるようになる。彼女は子供の頃既に、数字のひとつひとつに別の色が付いているのを感じたと言う。彼女は、素晴らしい記憶の持ち主でもある。彼女は、最初自分の特性を他人には秘密にしておくが、ホテルの客のひとり、精神科医のシュタエル博士に話す。博士はSynästhetikという病名を告げ、ソニアだけではなく、ごくまれにではあるが、左利きの女性に現れる症状であると述べる。
この彼女の得意な才能が、物語のなかで最後はどんな役割を果たすのかと、読んでいて期待をしてしまう。しかし、特に何も役割を果たさないまま、物語が終わってしまう。そのような要素がこの物語には多い。詰め込み過ぎて、それが未消化なまま終わり、「だからどうなのさ」と考えているうちに物語が終わってしまう。まあ、ソニアが色々な匂いや音を色に例えて形容するのはそれなりに面白いが。
シュタヘル博士の説明も面白い。ソニアは、マッサージをしながら、通常七色の虹の外側に、もうひとつの色を感じると博士に告げる。博士はドラッグがソニアの脳の組成をほんの少し変化させ、その結果、彼女の感受する景色が少し違ったものになったのだと説明する。脳の組成は人によって少しずつ異なっており、人が見る景色も、また少しずつ違うものだと。
「つまり、私たちが見ている『現実』は実際には全く存在しないものなのですか。」
とソニアは問う。
「いや、反対です。限りなく沢山の『現実』が存在するのです。そして、それはお互いに関連しあっている。お互いに補完しあって、包括的な、最終的な『現実』を作っているのです。」
この説明は何となく、常識の裏をかかれているようで、興味深かった。
この話は「悪魔は誰か」、「悪魔と契約した女性は誰か」を見つけることで収束する。しかし、そのテーマが出てくるのが、余りにも遅すぎる気がする。前半は、訳のわからない事件が、わけの分からないままに次々起こり、それのうちどれが重要で、どれが重要でないかが分からないので、読んでいて退屈で、戸惑いがある。結構意味ありげに語られたエピソードが、最後まで大した意味を持たず、「あれは一体何だったんだろう」と思ってしまう。個人的には、山羊飼いの少女と悪魔の話は、もう少し前に出して欲しかった。すると、この本がぐっと読みやすくなるのに。
この物語の中のお気に入りの部分を挙げておこう。ソニアと、夜警のカヌートの会話で、話題はホテルの美貌の女支配人バーバラ・ペータースである。
ソニア「彼女は親切だと思うわ。」
カヌート「親切。いや、それにはちょっときれい過ぎる。」
ソニア「きれいな人は親切じゃないの。」
カヌート「とてつもない美人はだめだ。あんたみたいに普通にきれいな人ならいいけど。」
ソニア「まあ、ありがとう。」
カヌート「支配人みたいな美人は、反対に親切にしてもらうことを期待して、他人に親切にしてあげる必要がない。だから親切にすることを覚えないんだ・・・」
(103ページ)
本当の美人には優しい人はいない。これは、将来に役立つかも知れない。もう、若い美人と何か関係することはないかも知れないけど。
ソニアの夫が何故刑務所に入っているのか、夫がソニアに何をしたのか、何故ソニアは彼の弁護士から毎日のように書留郵便を受け取るのか。この辺りが最初はよく分からず、物語が進んでもまだよく分からないまま。終わり近くになって、夫フレデリックの母が、客を装ってソニアの目の前に現れて、初めて全貌が明らかになる。これも、もう少し早めに出しておいてくれれば読みやすかったのに、と思ってしまった。
意味ありげな村人たちが登場する。いつも望遠鏡で他人を観察している農夫、ストーカーまがいの牛乳収集人、よそ者に敵意を持つ売店の女主人、何故かアジア風の凝った料理を出す食堂のコック。でも、最終的に、「この人たちは一体何だったの」と思ってしまった。
結論として、これまでのズーターの本の面白さを知っている人間には、少しがっかりする出来である。
(2006年9月)