「コントラバス」

原題:Kontrabaß

1980

 

<はじめに>

 

 コントラバス奏者の実演も交えながらの独り芝居。本で読むより、実際の舞台を見た方が面白いかも。しかし、私のドイツ語理解力では、舞台で全て聞き取れるであろうか、疑問。それでは、一度本で読んでから舞台を見たら・・・新鮮味が薄れるかも。何にしても、戯曲を本で読むのは難しい。

 

<ストーリー>

 

 舞台にコントラバスと共にいるひとりの男。彼は三十五歳、市の交響楽団のコントラバス奏者である。防音装置のあるアパートの一室に座り、観客に向かって話しかけながら、時々ビールをあおっている。

 彼は、コントラバスがいかにオーケストラにとって重要な楽器であるかを述べる。

「どの楽団員に聞いてもそう言う。指揮者はべつにいなくてもいいけど、コントラバスは絶対に必要だと。」(8ページ)

「コントラバスはつまり、上に立派な建物を建てるための、土台みたいなものだ。これははっきりしている。」(10ページ)

「オレが最初から言いたかったのは、コントラバスこそオーケストラの中心をなす楽器だと言うことだ。」(11ページ)

 彼はその後、コントラバスに関する、歴史、特徴等の「ウンチク」を述べていく。コントラバスはかつて三弦であったが、十九世紀に四弦になったこと。また、どのような防音壁もコントラバスの低音は通り抜けてしまうことを彼は証明する。アパートの彼の上に住んでいるおばさんが、天井を(彼女にとっては床を)、コツコツと叩いてくることによって。

 彼らコントラバスの特徴を「よく聴こうと耳を傾ければ傾けるほど、遠ざかって行ってしまう唯一楽器である」と述べ、音楽において、コントラバスと対極をなすものは、女性ソプラノ歌手であると述べる。

 同僚のメゾソプラノ歌手、ザーラの名前が出てきたあたりから、彼の弁舌における最初の勢いに翳りが出始める。愚痴が多くなる。彼は、コントラバスが最も始末に困る、嵩張る楽器であることをこぼし始める。そして、自分にガールフレンドができないのは、図体のでかい楽器が、監視するように部屋に立っているせいだと言い始める。

 彼の愚痴はだんだん攻撃的になってくる。オーケストラの団員の半分は精神的にイカレていて、カウンセリングに通っていると言い出す。そして、一番にカウンセリングに通うべきだった病的な男は作曲家リヒャルト・ヴァークナーであると言い始める。その矛先はモーツアルトにも向けられる。モーツアルトは幼い時から天才と言われているが、それは父親に虐待されただけ。猿回しのサルで、不当に高く評価されていると。(結局のところ、ヴァーグナーはコントラバス奏者にとって極めて弾きにくい曲を書き、モーツアルトはコントラバス向けに独奏曲を一曲も書かなかったのが、その攻撃の理由らしい。)

 彼は、メゾソプラノのザーラが、自分に注目してくれないことをこぼし始める。彼女が、客演の男性歌手と一緒に食事に行くのも気に食わない。そして、彼女の目を引かないことを、自分が不当な扱いと受けていると考え、それら全てがコントラバスのせいであると述べる。

 その夜は、名指揮者、カルロス・マリア・ジュリーニを客演に迎えて、ヴァーグナーのオペラ「ラインの黄金」が演じられることになっていた。彼は、自分がザーラの注目を得るための手段として、とんでもないことを考え始める・・・

 

 

<感想など>

 

 オーケストラを聴きに行ったときに、コントラバスの音が聞こえるかと言う問いに、私は先ず考え込んでしまう。確かに、下の方で、「ブォーン」と響く音は聞こえているのだが、それがどんなメロディーを奏でているか、判別することは、私には困難である。

オーケストラの作品において、チェロとか、オーボエとか、普段は余り表面に出てこない楽器でさえ、たまには主旋律を奏でることがある。あのトライアングルという「チーン」という音を立てるだけの楽器でさえ、ヴァーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などでは、それなりの存在感を示している。「ジャンジャジャジャーン」というメロディーに「チンチロリーン」というトライアングルの音が何とも言えない。

しかし、コントラバスは、全くと言っていいほど、表面に出る機会のない楽器である。

「コントラバス奏者って、どんな気持ちで楽器を弾いているのだろう。」

これは、誰もが感じてしまう「素朴な疑問」であろう。そこに目を付けたのが、この作品である。誰もが、コントラバス奏者って、結構屈折した性格なのではと予想してしまう。ズースキントは、その予想をストレートに形にし、コントラバス奏者の見事なステレオタイプを作り上げている。

 

 私の故郷の京都には「京響」、「京都市交響楽団」がある。安くて手軽なので、高校生の頃、演奏会を時々聞きに行った。一緒に言った友達、確かキホーくんだったかが、

「あの人たち地方公務員なんや。」

と発言し、それに驚いたことがある。しかし、その通り。楽団員は京都市に雇われているので、確かに公務員である。この本に出てくるコントラバス奏者も、「シュタット・オーケスター」(市営オーケストラ)に属する。つまり公務員である。労働時間は決まっている、安いが給料はきちんきちんと貰える、保険はある、定期的に休暇は取れる。でも、そんな身分、そんな「安定感」が、かえって彼に閉塞感を与えてしまうのである。

「『「音楽家」と『公務員』って、何となくピッタリ来ないよな。」

誰もがふと感じる、そんな気分にも、ズースキントは注目して、それを具体化している。

 

 彼は、メゾソプラノの歌手、ザーラに片思いをしている。そして、その夜、彼女の気を引くために、ひとつのアイデアを考え付く。果たして、それを彼が実行するのか、しないのか、大いに気になるところである。

 

 この作品は、一九八〇年に書かれた。一九八一年に、ニコラウス・パリラという、演出家兼コントラバス奏者により、ミュンヘンで上演されたと言う。コントラバスの弾ける俳優が必要なわけで、その意味では、いつでもどこでも上演というわけにはいかない作品であろう。

 

20077月)

 

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