グラマンとゼロ戦

 

solomon191

帰り道、車に乗せてあげた少年と。後ろはヴィサレ小学校の校舎。

 

 校長先生一家と別れ、再び首都ホニアラに向かって走り出すと、炎天下をトボトボと歩く子供の姿。フンワリとした鳥の巣のような髪をしている。裸足だ。もっとも田舎へ行くと、子供たちの大半は裸足なのだが。よく見ると、先ほど校庭で話をした子だ。車を停める。

「乗っていきなよ。」

と誘ってやると、「サンキュー」と、後部座席に乗ってきた。

「家から学校まではどれくらいかかるの。」

と聞くと、

「歩いて一時間くらいかな。」

と彼は言った。かなり走った場所が彼の村だった。降りるとき、彼は後部座席に置いてあったG君の運動靴を見て、

「これ、貰っちゃだめ。」

と尋ねた。それはG君にとっても唯一の運動靴だった。

「ノー」

というG君の返事を聞いて、少年は車を降りた。

 ホニアラへ帰る道の途中、「野外戦争博物館」へ立ち寄った。標識が出ているわけでもない。G君の記憶を頼りに、本道から離れ、脇道に入る。一応轍が付いているが、その間に五十センチくらいの高さの草が茂っている。四駆だから何とか通れるが、僕がロンドンで使っているBMWでは、腹がつかえて数メートルも進めないような道だ。

 道の終わりに「ワー・ミュージアム」の立て札があった。車を停めて、柵の中に入る。間もなく、六十歳くらいの男性が現れた。彼がこの地の管理人らしい。そこには戦争の記念物が展示されていた。飛行機の残骸も数機分あった。ほぼ完璧な形をとどめているのは「グラマン・ヘルキャット」のみ。後は米国の「ボーイングB十五爆撃機」の翼とか、双発の「ロッキードP三八戦闘機」の前半分とか、日本の「一式陸攻」の先端とか、残骸ばかりだった。それと夥しい数の、戦車砲、対艦砲、対空高射砲とその砲弾。管理人のおじさんは、「グラマン」の尾翼のあたりを見ろと言った。直径一センチくらいの穴が沢山ある。零戦の機銃により開けられたものだという。しかし、ジュラルミンというのはすごい。五十年以上経った今も、錆びひとつ吹いていない。

 管理人のおじさんは、僕たちは今日の最初の訪問客だと言った。ひとりの訪問客もない日もあると言う。なかなか魅力的な場所だったのだが、三十分ほどいただけで、G君と僕はそこを退散した。と言うのも、余りにも蚊がひどかったからだ。三十分で十カ所は刺された。

 その日の夜、G君と僕は、日系ホテルの支配人のTさんという方と食事をした。僕が、「ワー・ミュージアム」へ行ったと言うと、かつて航空会社にお勤めで、飛行機には詳しいTさんがこう言った。

「モトさん。あのグラマンご覧になりましたか。パイロットの前と後ろに厚い装甲版があるでしょう。ゼロ戦にはあれがないんですよ。日本とアメリカで兵隊をどれほど大事にしていたか、違いがあれで分かりますよね。」

 

 

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ゼロ戦の宿敵、「グラマン・ヘルキャット」の残骸。

 

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