「野獣」
作者:Anders Roslund & Börge Hellström
(アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム、スウェーデン)
原題:Odjuret(野獣)
ドイツ語題:Die Betie (野獣)
2004年
<はじめに>
ルースルンド/ヘルストレムの小説はどれも刑務所が舞台になっている。そして、囚人同士の会話など、その描写が実に生々しい。それもそのはず、ヘルストレムは服役の経験がある。スウェーデンの安部譲二というところか。どの作品も、単に謎解きに終わらず、社会的な問題を深くえぐっている。また、加害者が別の犯罪の被害者であるという構図には、考えさせられるものがある。
<ストーリー>
四年前。体操のトレーニングから帰る二人の少女が野球帽をかぶった若い男に呼び止められる。男は二人を鍵の掛かっていないアパートの物置に連れ込み、虐待し、殺害する。二人の少女の死体は三日後に住人により発見される。殺された少女の横に脱がされた服がきれいに畳まれて、二センチ間隔で並べられていた。足と靴は舌できれいに舐められていた。
スウェーデンは例年にない猛暑に見舞われていた。
ストックホルム南病院。アスプソス刑務所からの護送車が到着する。ふたりの看守と共に乗っているのは、鎖で繋がれたベルント・ルンド。四年前少女殺害の罪で服役中の男である。ルンドは、病院の入り口で、看守の隙を見て彼らを鎖で殴り倒し、護送車を奪い逃走する。
ルンド脱走の知らせが、ストックホルム警察に届く。警視エヴェルト・グレーンスは、その捜査の指揮を執ることになる。夜勤明けの彼の部下、スヴェン・スンドクヴィストはその日、誕生日であったが、グレーンスは彼に逃亡したルンドが見つかるまで、警察署に残ることを命ずる。スヴェンはしぶしぶそれに従う。
翌日。ひとりの父親が、五歳になる娘と、隣家の男の子と庭で遊んでいる。父親の名前はフレデリック・ステファンソン。作家。彼は数年前に離婚して、ひとりで娘のマリーを育てていた。最近マリーの行く幼稚園の先生ミカエラと同棲を始めていた。彼は昼過ぎに娘を幼稚園に送っていく。フレデリックは、幼稚園の入り口で、ベンチに座っているひとりの男を見る。彼は、父親が子供を待っているのだと思い、挨拶をして通り過ぎる。
グレーンスとスヴェンは、ルンドの足取りを探る手掛りを得るために、刑務所のルンドの房を訪れる。そこには全てのものが、二センチ間隔できれいに並べられていた。グレーンスはルンドが逮捕されたときの尋問を思い出す。ルンドの思考回路は余りにも常識人とかけ離れていて、会話さえ成り立たなかった。今回の事故は、ルンドに対して病院での診断、治療を試みるための護送中に、起きたものであった。
フレデリックは娘を幼稚園に送って行った後、仕事場に行き、テレビをつける。テレビに凶悪な脱獄囚として映し出された男の顔に彼は見覚えがあった。それは幼稚園の前のベンチに座っていた男ではなか。本能的に危険を感じたフレデリックは、急いで幼稚園に駆けつける。しかし、娘のマリーは行方不明になっていた。そして、他の園児の証言により、マリーはルンドにより連れ去れたことが分かる。
その日の夕方、定年退職をした夫婦が森の中を散歩している。彼らの上には、警察のヘリコプターが飛び交い、森の中には犬を連れた警察官の姿が見える。警察は懸命に、ルンドとマリーの行方を追っていた。老夫婦は最初に赤いエナメルの靴を、そして、木の下に幼女の死体を発見する。
フレデリックと別れた妻は死体安置所で、娘と対面する。マリーは乱暴され、泥まみれであったが、足だけはきれいであった。犯人が舐めたことが分かる。数日後、彼らは娘を埋葬する。
数日経っても、警察はルンドの足取りを掴むことができない。グレンとそのチームに焦りが出てくる。周辺の市民、特に子供のいる家族は、この事件にパニック状態に陥る。凶悪犯を取り逃がし、犠牲者を出したことに対して、警察への非難が集中する。
フレデリックは娘の葬儀の夜、車で町の中を徘徊する。明け方、彼はテレビ局に勤める友人を訪れる。そして、その友人からルンドに関する情報を仕入れる。ルンドがかつてタクシーの運転手をしていたことを知ったフレデリックは、タクシー会社に電話をし、ルンドがハイヤー運転手として通っていた固定ルートを知る。そして、その周辺にある学校や幼稚園を洗い出す。その情報を得るために、彼は警察を名乗り、スヴェンの名を使う。フレデリックは家に帰り、死んだ義理の父親の猟銃を持ち出す。そしてそれを車に積み、見当をつけた学校と幼稚園を順に回る。
グレーンスとスヴェンは、依然ルンドの足取りを掴むことができない。若い検事のオゲスタムは、自分が学生時代、アルバイトでタクシーの運転手をしていた経験から、ルンドがタクシーの運転手時代に培った「土地勘」を利用するであろうと、つまり、昔彼が運転していた場所に現れると推理する。オゲスタムの推理を受け入れたグレーンスは、スヴェンにタクシー会社に電話をさせる。スヴェンは自分の名前を語って、電話をしてきた人物が他にもいることを知る。
ルンドのかつての運転ルートの近辺の学校、幼稚園を虱潰しに回るフレデリック。ついにある学校の前で、ベンチに座っているルンドを発見する。フレデリックは猟銃をルンドに向けて発射。ルンドは頭を撃ちぬかれて死亡する。
フレデリックは殺人罪で逮捕され、起訴される。射殺されたルンドのポケットの中から、その学校に通う女性徒の名前が発見される。ルンドは次の獲物を見つけて、実行の機会を窺っていたのである。フレデリックの行為は、次の犠牲者を未然に防いだことになる。
フレデリックの逮捕に対して、世論は沸騰する。凶悪な犯人の脱獄を許した後、彼を捕まえることができず、更なる殺人を許してしまった警察。射殺という行為ながら、未然に次の犠牲者を防いだ民間人。フレデリックの行為は市民が自らを守るための正当防衛ではないかという議論と、フレデリックに対する同情が巻き起こる。一部の人間からは、フレデリックは「英雄」と扱われる。
フレデリックに対して、殺人罪で無期懲役を求刑しようとした検察官オゲスタムは車や家財を破壊されるなど嫌がらせを受け、フレデリックを運ぶマイクロバスがデモ隊に襲われ、警官が拳銃を奪われる。騒然とした中で、フレデリックの裁判が始まる。検察側は「殺人罪」を主張し、弁護側は「正当防衛」を主張して譲らない。拘置所の独房に居るフレデリックを、裁判長と牧師が訪れる。そして判決が伝えられる・・・
<感想など>
個人的にはフレデリックの行動に共感を覚える。子供に対する性犯罪は許し難い。ルンドは殺されてしかるべき人間である。しかし、法律はそのような人間をも殺すことを許さず、殺したものを罰せようとする。非常理を感じる。
フレデリックに対する同情、これは全ての登場人物に共通した感情であろう。警官、看守の誰もが、フレデリックに対して、あんたがここにいるのは間違いだと言う。グレーンス、検察官のオゲスタムまでが、自分のやっている行為に疑問を感じている。
私も個人的に、フレデリックが有罪になるならば、世の中が間違っている、そして、有罪が合法ならば、法律そのものが間違っているか、その解釈に誤りがあると思った。
エヴェルト・グレーンス、定年を数年後に控えた警視である。独身。オフィスに寝泊りし、いつもスウェーデンの女性歌手、シヴ・マルムクヴィストの曲を大音量でかけている。何故彼が今も独身で、シヴの曲を好むかには理由があるのだが、この話ではその過去の出来事はまだ明らかになっていない。
彼は二十五年前に買ったカセットレコーダーでその曲を聴いている。しかし、毎日使っているカセットレコーダーが、二十五年も持つものなのか。「ダヴィンチ・コード」の主人公は、同じく二十数年前に買ったミッキーマウスの腕時計を使っていたが、どうもその設定には無理があるようで、ひっかかる。細かいことであるが。
ともかく、グレーンスが一度シヴの曲をかけ始めると、その曲が終わるまで、絶対に中断してはいけないという不文律が、グレーンスの周りの人間にある。ところが、オゲスタムが演奏中のカセットを止める。ドキッとする瞬間である。当然グレーンスは怒る。そして、その後、ふたりが取った行動というのが実に面白い。
スヴェン・スンドクヴィスト。グレーンスの部下である。事件の為に、幼い息子と約束していた誕生日をパーティーのために帰宅することができなかったことを悔やみ、約束を守れなかった自分を恥じる。彼は家族思いの父親である。スヴェンは、「家族、家庭」とは一切縁のないように振舞っているグレーンスと対極をなしている。彼は、常に自分の職務に疑問を持っている。今回、同じ歳の子供を持つ父親、フレデリックを逮捕することで、その職務に対する疑問が一段と深まる。
あちらこちらに、キラリと光る描写がある。例えば、マリーの死体は老夫婦により発見される。その夫、定年退職をした男の描写である。彼は、かつてのジュース工場で一緒に働いていた同僚について、次のように考えている。
「奇妙な話だ、と彼は思う。自分に興味もなく、自分を必要ともしない同僚たちとずっと一緒にいたなんて。居間の隅にあるつけっぱなしのテレビに写っているような人たちと。彼らとの生活は儀式であり慣習であり、それが空虚さと沈黙が隠していた。同僚たちは、いわば、自分がまだ存在することを確信するために、自分自身を映し出す鏡にすぎなかったのだ。それ以外はどうでもいい人々だった。自分自身にとっても、彼ら全てにとっても。定年になり、自分は突然存在しなくなった。しかし、彼らは何事もなかったように働き続けている。彼らは毎日ジュースをかき混ぜ、ロットの紙に書き込みをし、休憩時間に笑っている。自分などまるで一度も存在しなかったように。」(122ページ)
この男は、物語ではほんの端役である。その彼に対しても、念入りで、細密な描写が試みられている。
ストーリーの紹介では書かなかったが、もうひとつの舞台が、アスプソス刑務所である。看守同士の同性愛、麻薬の持ち込みと吸引、消火器を使った酒造り、囚人同士のリンチなどの様子が、事細かに記述されている。ヘルストレムが「囲いの中」で暮らしたことがあり、これらのエピソードがある程度事実だとすれば・・・恐ろしい。囚人の中にも、犯罪によりランクがあり、「子供による性犯罪」は囚人の中でも恥ずべきもので、リンチの対象となるというのが面白い。
今ひとつの舞台が、タルベッカという小さな町である。そこにゲランという無職の男が住んでいた。彼は教員を目指していたが、教育実習中学校で、素っ裸で歌を唄い、その後は「変質者」というレッテルを貼られ、職に就くことができなかった。犯人を自ら射殺するというフレデリックの行為に触発され、彼を「英雄」視する市民たちは、「変質者」ゲランを町から追い出そうと画策する。
被害者が加害者という構図である。これは、この作者の作品に共通するものである。この物語で、フレデリック・ステファンソンは娘を殺された被害者であると同時に、犯人を射殺した加害者。次の作品「蒼ざめた天使」では、人身売買でスウェーデンに送られ、売春を強要されていた若い女性が、人質事件の加害者となる。この構図が、物語に陰影と深みを与えている。どの作品も、現代の社会問題を鋭くえぐって、読者に問題を投げかけている。なかなか良い作家であると思う。
残念ながら、スウェーデン語の原題がどのような意味なのか、見つけられなかった。
(2009年4月)