雷雨
走り仲間の飯田さんと一緒にスタートを待つ。只でさえ湿度の高い天気、それに一万数千人が狭い柵の中にひしめいているのだから、蒸し暑くてやりきれない。ドンチャカと音楽が高まり、カウントダウンが始まり、出発時刻の十時半になる。しかし、一向に集団は動く気配がない。やっと動き出したのは十分近くたってから。僕がスタートラインを越えたのは先頭が通過してから十三分後だった。でも、慌てることはないのさ。靴に結び付けたマイクロチップが、スタートからゴールの正味の時間を計ってくれる。後方から、抜いていくのもまた楽しかろう。
スタート後間もなく、ライン河にかかる長い橋「ドイツブリュッケ」を渡る。対岸の旧市街には、曇り空を背景に大聖堂が黒々と聳えている。
「ずいぶん蒸し暑いですね。」
僕は、並走する飯田さんに言った。極めてゆっくり走っているのにも関わらず、汗がしたたり落ちる。大量の汗は、体内から水分と塩分を奪うので、ちょっと心配。
前夜、デートレフの家に泊まったとき、ベランダで夕飯を食べた。奥さんのビアンカが、中華料理に挑戦、タケノコの炒め物やサテソースにかかった肉を出してくれた。食事の最中、九月も中旬になるのに、まだ夜に外でのんびり食事をしていられることに気付き、僕は驚いた。寒い年なら、もう暖房を入れていてもよい頃だ。ケルンマラソンは練習の一環と思っていた僕は、デートレフとビアンカに勧められるがまま、飲み、そして食った。食事中、絶えず遠雷がとどろき、遠くの空に稲妻が走っていた。
スタート直後、ポツポツと降り始めた雨が、十キロ当たりで激しくなる。夕立のピーク時のような降り方だ。野球帽を目深に被り直し、直接雨が目に入らないようにする。帽子がなければ、目を開いておれないような豪雨だ。
僕と飯田さんは、時々言葉を交わしながら、一キロ当たり五分半のペースで走っていた。飯田さんが僕のペースの正確さに感心している。「おいらは走る精密機械」、走ることでは超のつくヴェテランの僕は、自分のペースをきっちり守れるのだ。
雨が激しくなるにつれて、周りのランナーのペースが上がる。
「雨に会うと、速く走りだす。これ、人間の本能ってやつですかね。」
僕は飯田さんに言った。もうひとつの本能があるなら、それは「他人の前でええかっこをしたい」かな。市街地に入り、道の両側に観客が増えると、やはり周りのペースが上がるのが面白い。
雨は十五キロあたりで小降りになった。周りの空気は幾分涼しくなり、走り易くなる。僕はそれまで一緒に走っていた飯田さんに別れを告げ、すこしペースを上げてみることにした。中間点は一時間五十七分で通過。ほぼ予定通りだ。雨がやんだので、被っていた「1FCケルン」の帽子を、沿道で応援してくれていた七歳くらいの金髪の少女に進呈する。そして、まだギアを上げて、ゴールに向かって走り出した。