実存主義

 

 ニーチェ(Friedlich Nietzsche 1844-1900)は、ヘーゲルの歴史主義を批判し、血の通わない歴史に興味を持つより、今の自分自身と対峙しなければならないと述べた。彼は「全ての価値の転換」を唱え、キリスト教的な道徳を「奴隷の道徳」と一笑に付し、真の強者は、そのような弱者の道徳の影響を受けることはないと述べた。

 ニーチェは「神は死んだ」と述べる。キリスト教や、伝統的な哲学は有りもしない「イデア」、「見せかけの理想の世界」に人々の目を向けさせている。天国など、この世の物でないことに期待を抱かせる、そんなことを話す者を信用してはいけないと、彼は警告する。

 

 二十世紀の実存主義哲学者の代表が、ハイデッガーとサルトル(Jean-Paul Sartre 1905-1980)である。サルトルは、同じく実存哲学者のボーヴォワールと結婚、パリのカフェに通い、そこで考えを練った。

 キェルケゴールの影響を受けたサルトルであるが、キェルケゴールがキリスト教信者であったのに対して、彼は無神論者であった。サルトルは、実存主義はヒューマニズムである、つまり、最終的には全て人間に戻ってくると考えた、

 また彼にとっては「存在」が大切なキーワードとなる。人間だけが自分の「存在」を知っている。その点、人間であることは、他の動植物であることは違う。そして、人間であるという事実は、人間が何であるかという考えより、遥かに先に存在するものである、と彼は考えた。

 それまでの哲学者は、「人間は何であるか」、「自然は何であるか」という問いに対する答えを求めようとしたが、人間は本来回帰することの出来る「自然」など持っていない、また、誰もがよりどころにできる、不変の「人生の意味」などというものはない、サルトルはそう考える。人間は、突然台本もなく舞台に立たされた俳優のようなものであると。全ては自分で考え、決断して行動しなければならない。「自分」を導いてくれる者など誰もいない、人間は自分の力で道を開かなくてはいけないということになる。

 もちろん、それは人間とって、不安なことだ。しかし、その不安こそ、現代の人間の証しであるとサルトルは述べる。「人間は『自由』という判決を受けている」、というふうに、サルトルは表現した。

 しかし、サルトルは人間の人生に意味がないとは言っていない。ただ、それは自分で見つけるべきであるし、人間は自分たちの弱さ、不安に対して、責任を取る必要もない彼は考えたのである。

 サルトルは、意識が感じなければ、そこには何もないということを証明しようとした。また、感じたことを、人間は取捨選択することができると考えた。例えば、ひとつの部屋にふたりの人間がいる。しかし、ふたりの人間は全く別のことを経験することがある。妊娠している女性と、通常の男性では、感じることも違うであろう。それは、考えや、興味の対象が違うからである。

 また、サルトルは、起こっていないことさえ「体験」できることにより自分の理論を証明しようとする。例えば、ある女性が、恋人からの電話を待っている。一晩中待ったが、結局電話はかかってこなかった。その場合、彼女は「電話がかかってこなかった」つまり「何も起きなかった」ということを「体験」しているのである。

 サルトルは、哲学的な問いに対する、どの時代にも、誰にも通用する答えはない。その答えは、時代時代により、個人個人によって異なるものであるということで、永年の哲学的な論争に、彼なりの終止符を打ったことになる。

 

サルトルの妻、シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir 1908-1986)は、実存主義を、女性の解放に応用しようとした。サルトルは、人間にとって、自然、生まれながらにして備わった本質というものはないと説いた。ボーヴォワールは、その考えを一歩進め、これまで信じられてきた、女性の「生まれながらにして与えられた役割」はないと考えた。

彼女は著書「第二の性」の中で、女性は、男性に続く「第二番目」の性であってはならないと述べる。男性が「主体」であり、女性が「客体」であるというようなことは有り得ない、確固とした自然がないように、確固とした男女の役割というものもないとボーヴォワールは書いている。

しかし、同時に、女性が男性と同じ役割を果たす際には、女性は男性と同じ責任も果たさなければならないとボーヴォワールは述べている。女性がその責任を果たすことから逃げるならば、男性が女性を抑圧しているのではなく、女性が自分で自分を抑圧していることになる、とボーヴォワールは説いた。

 

実存主義は、文学、演劇にも影響を与える。フランスのアルベール・カミュ(Albert Camus)、アイルランドのサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)、ルーマニアのウジェーヌ・イヨネスコ(Eugène Ionesco)、ポーランドのヴィトルド・ゴンブロヴィッチ(Witold Gombrowicz)等が実存主義的な作家である。

演劇の分野では、彼等によって、多くの不条理劇が書かれた。一見意味のないことの羅列されているそれらの不条理劇においては、観客は単に見るだけではなく反応することが要求される。つまり、観客に一見意味のないことを見せることにより、自らの存在の意味を考えさせようというのである。例えば、朝起きて、歯を磨いて・・・そんな日常の行為が延々と演じられ、それが観客の笑いを取るとする。それは観客による、自分の日常、本質が明るみにでることに対する「抵抗」とも言える。

実存主義は更に、シュールレアリズムにも影響を与え、チャップリンの無声映画も、実存主義に影響を受けていると言うことができる。

 

二十世紀に入り、キリスト教の権威が益々弱まり、それに従い新しい価値観が次々と生まれた。

最近、最も大きな位置を占めているのが、「エコ哲学」である。そのエコ哲学者は、「人間の文明は誤った方向に進んでいる」と警鐘を鳴らす。人間は果たして自然の上位に立ち、それを導いていく立場にあるのだろうか。そうではなく、人間も自然の一部でありそれと共存する立場にあるとエコ哲学者は述べる。それは、絶え間ない開発に対する、疑問、反発である。

「エコロジー」、「環境」を重視する風潮を指し、「ニューエージ」と呼ばれるが、「新しいものが必ずしも良いものではない」ということが「ニューエージ」とは、少し皮肉である。

人間は月にも到達した。しかし、それを支えた科学技術も、最初は哲学的な問いかけから始まったものである。これから、益々色々な価値観が生まれるであろうが、雑多なゴミの中から、宝石を見つけ出す、それが我々人間の使命であろう。

 

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