「中世の哲学」
栄華を誇ったローマ帝国も、外敵の侵入によって次第に弱体化する。330年には、帝国の首都がローマからコンスタンティノープル、今のイスタンブールに移される。その間、キリスト教はそれに対して、どんどんと勢力を増していき、380年、ついにローマ帝国の国教となる。395年はローマ帝国が東西に分裂、476年、西ローマ帝国は滅びる。
ローマ帝国によるキリスト教の公認は、同時に、それから千年以上続く、長い長い「中世」の始まりでもあった。529年、プラトンの開いたアカデミアが閉じられる。その後、学問を行う場所は、キリスト教会、修道院の専売特許になってしまう。
しかし、ギリシア哲学は、ローマカトリック文化、東ローマ文化、アラビア文化の中で、生き続けた。それが千年後に、ルネッサンスとして北イタリアで再び開花するのを待ちながら。
ともかく、中世において、哲学者の活動範囲は限られてしまった。彼らは「キリスト教の教義と矛盾をもたらさない範囲」でしか、活動できなくなったのである。哲学者たちは、どうすれば「信仰」と「学問」が、つまり「キリスト教」と「ギリシア哲学」が、対立なく存在できるか、その説明に腐心した。
アウグスティヌス
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 345−430)は中世の初期、プラトン哲学とキリスト教の融合を試みた人物である。中世の哲学者は、キリスト教の奥義は、「盲目的な信仰かにより得られるのか」、それとも「理性により探求するのか」という命題を常に持っていた。新プラトン派の影響を受けたアウグスティヌスは、プラトンの唱えるイデア界こそ神の作品であると説いた。そして、そのイデア界に近づくのは信仰によってであること。つまり、信仰により神に近づくことにより、その神の威光が我々の心を照らし、その光により、超自然的な知識を得ることができ、最終的には神と一体化できると考えた。
またアウグスティヌスは、「人間は死後皆地獄に落ち、神はその中から選ばれた者だけを救い出す。その神の選択に人間は影響を与えることはできない」と説いた。一種の運命論である。彼は更に、「神の国」の中で、この世の中では「神の国」と「世俗の国」が対立し、人類の歴史はその対立の歴史であるとしている。しかし、最終的に「神の国」を作る上で、対立の歴史は必要なものであり、その必然的な歴史の上に初めて、「神の国」が到来するのであると。つまり、人間は個人的にも社会的も神の敷いたレールの上を走っているに過ぎないと説いた。一口で言うと、アウグスティヌスはプラトンの「キリスト教化」を試みた人物であった。
トマス・アクイナス
トマス・アクイナス(Thomas Aquinas 1225−1274)はアリストテレスの「キリスト教化」を試みた。アリストテレスの思想は、主にアラブ世界の中で保持されていた。キリスト教徒と回教徒の接触により、その思想が再びキリスト教世界に紹介されはじめる。
中世の初期、キリスト教会の聖職者たちは、ギリシア哲学が、キリスト教の教義に脅威をもたらすのではないかと恐れていた。そして、それが杞憂であることが証明されるまでに、長い時間が必要であった。
トマス・アクイナスは、ギリシア哲学という「雄牛」の角を掴んでそれをコントロールしようとした、つまり、信仰と学問の共通項を見つけようとした人物である。彼は、信仰によっても理性によっても、結局は同じ神の真理に辿り着けると説いた。例えば「神は実在するか」という問いに対して、答えを見つける道はふたつある。「信仰の道」と、そして「理性の道」である。しかし、ふたつの道は矛盾しないで、結局同じ帰結に着くと彼は述べた。
彼はアリストテレスの述べる、自然を最初に動かした者、「第一動者」がすなわち神であると述べた。そして、その神の存在を知る方法がふたつあると考えた。本を読むとある程度その作者の人格は想像することができる。しかし、本当に作者にいて知りたければ、その作者の伝記を読むのが手っ取り早い。彼は、アリストテレスのように「観察」により事物の本質を知ろうとすることは、本を読んで、その中から作者を推し量るようなものだと言った。それも確かにひとつの方法であるが、「聖書」という作者の伝記を読めば、いち早く作者の本質に迫ることができると彼は説いた。
確かに、アリストテレスの分類学は、人間を神によって創造されたものとして、他の動物たちと一線を画す上で、キリスト教にとっても都合の良い理論であった。また、「第一動者」イコール「神」という認識にも無理がなかった。こうして、回教徒の中に生きていたアリストテレスの思想は、中世キリスト教世界の中で再び脚光を浴びるのである。