「私の名は紅」

原題:Benım Adım Kırmızı

ドイツ語:Rot ist mein Name

著者:オルハン・パムク (Orhan Pamuk)

1998

 

     

 

<はじめに>

 

息子に勧められて読み始めた。長大な本である。一章ごとに語り手が変わる。しかし、語り手はまず自分が誰であるかを宣言している。犬、木、馬までが語り手に加わる。

 

<ストーリー>

 

 細密画家、「繊細」は何者かに殺され、古井戸の中に投げ込まれる。彼は当時、時の為政者、パディシャがイスラム教創始千年記念に秘密裏に作成している、「この世にふたつとない本」の編纂に携わっていた。

 カラは十二年間の放浪生活の末、イスタンブールに戻る。彼の伯父に呼び戻されたのである。伯父はパディシャの企画する「この世にふたつとない本」の元締めをしていた。カラは十二年前、伯父の元で本の編集を学んでいたが、伯父の娘、セキューレと恋に落ち、彼の怒りに触れて追放されたのであった。

 セキューレは、その後軍人と結婚し、ふたりの男の子、セヴケットとオルハンを設けていた。しかし、夫は戦争に行ったきり四年間音沙汰なしになっていた。独りで夫の帰りを待つセキューレに、夫の弟ハサンが言い寄る。そのしつこい求婚から逃れるために、セキューレは父親の家に戻ってきていた。

 カラは伯父の家で、セキューレに再会することを期待する。しかし、セキューレはカラを避け、召使のハイリエをユダヤ人の女エスターに遣わせ、カラに手紙を渡す。カラは追放になる前、自分とセキューレの姿を絵に描き、セキューレに与えていた。セキューレは手紙と一緒にその絵を返し、

「自分のことは全て忘れてくれ。」

と伝える。しかし文面とは裏腹に、セキューレは窓の傍に立ち、馬で駆け去るカラの前に自分の姿を晒す。カラも、セキューレが文面とは裏腹に、自分に好意を寄せていることを知る。

 カラはパディシャからの命令で絵師たちが集まり本作りをしている工房を訪れる。そこで、「名人中の名人」オスマンと会う。彼は、十二年間で見聞きした、ペルシャなどの事情をオスマンに語る。カラはオスマンがヴェネチア風の写実的な作風に影響を受けている自分の伯父を嫌っていることを感じる。本のイラストレーションは、オスマンの後を継ぐ、四人の若い名人達により進められていた。「繊細」、「蝶」、「オリーブ」、「コウノトリ」と呼ばれる四人である。(彼らのあだ名は師匠のオスマンが徒弟時代につけたものである。)そのうち「繊細」は六日前から行方不明になっていた。カラは自宅で作業をすることを許されている残りの三人を訪ねてみることを決意する。

 カラは先ず「蝶」を訪ねる。「蝶」はカラに三つの寓話を語り、自分がいかに絵を通じてイスラムのために貢献してようとしているかを語る。しかし、きれいごととは裏腹に、かれは金と女を愛する俗物であった。次にカラは「コウノトリ」を訪れる。「コウノトリ」も三つの寓話を通じて、絵の持つ永続性を語る。しかし、彼も表裏のある男で、実は男色家であった。「オリーブ」も同じく、三つの寓話を語る。本当の名人は盲目になっても、絵を描くことができる、つまり正しい絵の素養を身に着けていることが良い絵を描く条件であると彼は述べる。しかし、彼も自分勝手な男であった。カラが「オリーブ」の家を去るとき、オリーブの弟子のひとりが家の中に走りこんできて、「繊細」が古井戸の中から死体で発見されたことを告げる。

 セキューレとカラはエスターに手紙を託して連絡を取る。しかし、エスターはその全ての手紙を、同じくセキューレに恋心を頂く、前夫の弟ハサンに見せていた。セキューレは父親に、自分はカラとの結婚を決意した旨を述べる。ハサンは、カディ(イスラム教での下級裁判官)に訴えてでも、セキューレを連れ戻すと彼女に脅迫の手紙を書く。

 「繊細」の葬儀が行われ、カラの伯父、名人中の名人オスマン、その他、パディシャの本の制作に当たる皆が参列する。イスラムの絵に新しい風を吹き込もうとするカラの伯父と、伝統を守り抜こうとするオスマンの間には以前から対立が生じており、ふたりの会話はよそよそしいものであった。そして、その会話を「繊細」を殺した犯人が聞いていた。犯人は「蝶」、「コウノトリ」、「オリーブ」の中の一人であった。

 カラは病気の伯父を助けて本を完成させるために、毎日伯父の家に通う。伯父はヴェネチアの肖像画に大きな衝撃を受け、これまで文章の添え物、挿絵に過ぎなかった絵を、独立した価値をもつものにしたいと思っていた。しかし、伯父の考え方は、当時の支配階級や、同業者には受け入れられず、伯父を「悪魔の誘惑に耳を貸している人物」と評する者もいた。

 自分の父の元に通うカラとセキューレは直接顔を合わせることはないものの、セキューレは隣の部屋の節穴からいつもカラを観察していた。カラは、伯父の家の近くに、かつて裕福なユダヤ人の住んでいた廃屋があることを知る。そして、エスターを通じて、夕方その廃屋に来てくれるようにと頼む。セキューレはそれを承知する。セキューレは子供達と召使を外に出し、自分は廃屋へ向かう。そして、そこでカラと会い、愛を確かめ合い、結婚の約束をする。

 子供達と召使が外出し、セキューレがカラと会っている夕方、ひとりの男がカラの伯父を訪れる。彼は画家の一人であった。彼は、西洋の影響にかぶれ、悪魔の誘惑に耳を貸したため、「繊細」を自分が殺したと伯父に告げる。ふたりは言い争いとなり、男は、銅製の水入れを伯父の頭に叩きつけ、伯父をも殺してしまう。

 家に戻ったセキューレは自分の父が殺されているのを発見する。彼女は死体を隠して、荒れた部屋を片付ける。そして、カラにすぐに会ってくれと依頼する。もし、伯父が亡くなっていることが知れると、セキューレ自身は庇護者を失うことになる。そうすると、自分の前夫の実家に戻らねばならないと、彼女はカラに告げる。カラは何とか対策を講じることを約束する。

カラは聖職者を買収し、夫が四年間戻らないセキューレは「独身」に戻ったという書類を作成させる。その書類を持って、別の聖職者のところへ行き、今晩、セキューレと自分の結婚式を挙げてくれるように依頼する。余りに急な依頼にその聖職者は驚くが、カラは

「花嫁の父親が重病で死にかけており、自分が生きている間に娘の花嫁姿を見ることを望んでいる。」

という理由で説得する。ふたりはその夜結婚式を挙げる。セキューレは殺された父をベッドに寝かせ、参列者には重病で寝ていると説明。カラとセキューレはベッドの横でいかにも父と話しているという演技をし、何とか結婚式を終える。セキューレの子供達には祖父の死は告げられておらず、真相を知っているのはカラとセキューレの他に、召使のハイリエだけであった。

結婚式の夜、セキューレは、カラが家の表で誰かと話しているのを見つける。その相手は、かつての夫の弟、ハサンであった。ハサンは

「おまえたちの結婚は無効だ。おまえたちは父を殺した。」

とカラを非難する。そのとき、セキューレの息子にひとりセヴケットが、

「お祖父さんが殺されている。」

と叫びながら庭に飛び出してくる。ハサンもその声を聴く。 

 翌朝、カラ、セキューレは泣き叫ぶことにより、近所に父親の死を伝える。カラは再びモスクの聖職者を買収し、伯父の死を普通の自然死として扱い、ことを荒立てないようにと依頼する。

カラは伯父の死を伝えるために王宮に向かう。そこで、大蔵大臣に会い、伯父の死にまつわる真実を告げる。カラは新しい本のために、十枚の挿絵が描かれたが、自分は九枚しか伯父の部屋で発見できなかったこと。残りの一枚は伯父を殺した犯人が持ち去った可能性の高いことを大臣に述べる。大臣はカラの話を信じる。そして、真相を工房の人間も含めて誰にも告げないようにカラに指示する。

数日後、伯父の葬儀が行われる。国の重鎮が出席し、盛大なものであった。

 カラは再び宮殿に呼び出される。そこには名人中の名人オスマンもいた。カラとオスマンはパディシャより、「繊細」とカラの伯父殺しの犯人を三日以内に見つけ出すことを命じられる。それができないときは、工房の画家全員が拷問にかけられるという。

「繊細」は、殺されるときに一枚の馬の絵を持っていた。その馬の絵が、「繊細」の妻からセキューレの手に渡り、カラとオスマンに届けられる。カラとオスマンはその絵を描いた者が殺人者であると考え、その画風から絵師を見つけようとする。オスマンが、馬の鼻の描き方に、伝統から外れた点を発見する。早速、「オリーブ」、「コウノトリ」、「蝶」の三人に遣いが送られ、その場で馬の絵を描くように命じられる。しかし、宮殿に届けられた馬の絵の中に、「繊細」が死ぬときに持っていた馬の絵と、共通の特徴を持ったものはなかった。

 オスマンはパディシャに願い出て、宮殿の宝物庫の中にある他の絵も、見たいと告げる。彼の願いは受け入れられ、オスマンとカラは宝物庫の中に入り、膨大な数の本を順番に開けていく。二日目、カラは終に、ある本の中から同じ特徴を持つ鼻を持った馬の絵を発見する。オスマンは、それを見て、誰が犯人であるか分かったと言う・・・

 

<感想など>

 

 この物語は、一六〇〇年ごろの、オスマントルコ時代のイスタンブールを舞台にしている。現在、我々が目にする西洋絵画と、当事のオスマントルコにおける細密画の、根本的な違いを知り、驚くことが多かった。

 西洋絵画の基本は「写実」であると思う。肖像画などは「いかに本人に似せるか」が問題となってくる。言い換えれば印象主義、表現主義の出現までは、「見たままを描く」といくことが基本であった。しかし、トルコの細密画においては、絵は「写実」ではない。「理性と信仰のフィルターを通して」描かれなければならない。言葉を代えると「アラーの視点」で描くと言ってもよい。

そこには厳然とした「伝統」いやそれ以上の「規則」が存在し、全ての絵師は、その「規則」に遵って絵を描かねばならない。その「規則」の中には例えば「遠近法を使ってはいけない」、などということもある。つまり、イスラムの細密画では、事物は遠くにあろうが、近くにあろうが、全て同じ大きさで描かれている。逆に、「規則」さえマスターすれば、モデルを見なくても描けるわけで、「盲目の画家」などという西洋では有り得ないものが存在していたという。

 つぎに、絵の匿名性である。イスラムの細密画には、画家のサインがない。それどころか、画家の特徴、独自性を出すことにより、その絵が誰に描かれたかを特定させることが禁じられているのである。絵は均質なものでなくてはならない。ストーリーの中で「馬の絵を描いた人物」が「殺人者」であることは分かっている。しかし、その徹底した「匿名性」により、「名人中の名人」オスマンをもってしても、犯人を特定することが大変難しいという状況がそこに生まれる。

 また、西洋では画家は「ペインター」であり、独立した存在であるが、オスマントルコにおいては、画家はあくまで「イラストレーター」、つまり物語の挿絵を書く存在なのである。

「おまえも知る通り、詩と絵、色と言葉は兄弟なのだ。」(158ページ)

とカラの伯父は語る。つまり、当時少なくとも本においては、文章は挿絵なしには存在しえないし、絵は文章なくしては存在しえなかったのである。

 そしてオスマントルコでは「本」自体も、西洋社会とは違う意味を持っていた。本の編纂は、為政者が自分の治世を後世に伝えるための「国家事業」であったのだ。本を作れるのは権力者だけであり、作られた本は「不死の力」を持つと思われていた。古代エジプトの王が、競ってピラミッドを作ったのと似ている。そうした伝統の上で、この物語が舞台になる、「本を作るための国立の工房」の存在が成り立つのである。

 しかし、その伝統だけでは満足せず、イスラムの絵に、新しい息吹を吹き込もうとしている人物がいた。それが「カラの伯父」である。この人物、ドイツ語では「オーハイム(伯父)」としてしか語られず、本名は分からない。ともかく「伯父」は一度ヴェネチアを訪れ、そこで西洋の絵画に触れ、その凄さを知っていた。

「西洋の絵画は『陰』の芸術である。」

と彼は語る。そう言えば、西洋の肖像画はどれも暗い。暗い中に人物が浮かび上がっているようなものが多い。しかし、その革新的な考えゆえに、「伯父」は伝統を守り抜こうとするオスマンと対立し、殺されてしまうことになるのであるが。

 ともかく、イスラム世界においては、芸術は宗教を離れては存在し得ないのである。おそらく政治も。その辺り、現在でも西洋人がイスラム世界から感じる戸惑いを、強く感じさせる本である。

 

この物語をどの範疇に収めるのかを決めるのは難しい。オスマントルコの細密画に関する「薀蓄(うんちく)」の書と取られることもできる。一方、殺人事件の犯人を見つけ出す「推理小説」であり、その手段として、当事の絵が使われているということもできる。

ともかく、絵に対する極めて詳細な描写と、次々と繰り出される絵にまつわる逸話を読みこなしていくことに、膨大な忍耐と努力を要する本であった。しかし、オスマントルコ時代の文化、生活、またイスラム教における文学や絵画の位置づけを知る上で、非常に勉強になる本でもあった。

冒頭にも書いたが、章ごとに語り手が交替する。主な語り手はもちろん、カラ、セキューレ、オスマン、エスター、犯人、カラの伯父などの主な登場人物である。しかし、時として、木、馬、犬、金貨など、以外な語り手が現れる。西部ドイツ放送の放送劇では、これらは、コーヒーハウスでコメディアンが語るという設定になっていた。

 

作者のオルハン・パムクは一九五二年生まれのトルコ人の作家である。彼は同時に米国、コロンビア大学の比較文学の教授であり、回教徒である。二〇〇九年現在、彼は「私の名は紅」を含む十一の小説を発表、二〇〇六年にはノーベル文学賞を受賞している。ちなみに彼はトルコ人でただひとりのノーベル賞受賞者である。 

 

200910月)

 

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