「庭師の視点」
ドイツ語題:Die Perspective des Gärtners (庭師の視点)
原題:Maskarna på Carmine
Street (カーミン街の蛆虫)
2009年
<はじめに>
不思議な物語である。推理小説のような、怪奇小説のような。読み終わって、ストーリーを整理しようと思っても苦労する、そんな小説であった。
<ストーリー>
エリック・シュタインベックは妻のヴィニーと共にニューヨークに越してくる。十四ヶ月前、彼等の四歳に娘サラが誘拐され、その後全く行方が分からなくなっていた。ヴィニーはそのショックで自殺未遂を起こし、神経科の病院に入院する。ようやく快復の兆しを見せたヴィニーの提案で、気分転換を兼ね、「新しい生活」を始めるために、ふたりはニューヨークにやってきた。作家であるエリックは毎日図書館へ通い執筆をし、画家であるヴィニーは再び絵筆を執る。
ふたが知り合ったのは、一九九九年、エリックの新作の発表会であった。ひとりの女性がエリックを誘う。彼女はエリックの新作「庭師の視点」の中に出てくる詩とまったく同じ詩を、自分も手帳に書いていたと言う。それは全くの偶然なのか、ふたりとも説明することは出来ない。
二人は親密になり、結婚する。サラは前の夫とその間に生まれた娘を四年前に事故で失ったと告白する。そして、自分はもう一生子供は作らないつもりだと言う。しかし、間もなくふたりの間にサラという女の子が生まれる。エリックとヴィニーはそれから数年間幸せな生活を送る。
しかし、その幸せな生活が暗転する。サラが四歳になったとき、家の前の芝生で遊んでいた彼女は、エリックの見ている前で、何者かに連れ去られる。警察は捜査を続けるが、何も手掛かりは得られない。身代金の要求なども全くない。そして、一年以上の時が経った。
ニューヨークへ着いてから、無口なヴィニーは益々寡黙になる。彼女は奇妙な絵を描き始める。それは、エリックの証言を基に、サラが誘拐されたときの状態を克明に描いたものであった。そこにはサラを連れ去った男と、その男が乗っていた車が描かれていた。しかし、その男の顔は空白のままだった。その絵を示しながら、ヴィニーは、
「私にはサラが生きていることが分かるの。」
とエリックに語る。エリックはその理由を尋ねるが、ヴィニーは答えない。
彼等がニューヨークへ来てからしばらくして、エリックは妻を街で見かける。家に戻って、彼が、
「どうしてあそこへ行っていたの?」
と聞いても、ヴィニーは、
「そんな所へ行った覚えがないと。」
と言い張る。そのようなことが二度続いた後、エリックは、ヴィニーに
「何故嘘をつくんだ。」
と迫る。ヴィニーは、
「一週間だけ時間をちょうだい。」
と言う。エリックは図書館で知り合った元私立探偵のエドワーズにヴィニーの尾行を依頼する。ヴィニーはその直後、アパートから消える。
エリックは自分の書いた「庭師の視線」書評の中に、自分の書いた詩が、かつてニューヨークに住んでいたフランス人のベルナール・グリモーと名乗る詩人の引用であると書かれていることを知る。彼は、それを完全に自分のオリジナルだと思って書いていた。しかも、その詩は、ヴィニーと自分が偶然同時期に書いたというものだった。彼は、グリモーについて調べる。二十世紀の半ばに生きたグリモーは、娘が四歳のときに、事故で妻と娘を失くしていた。
ヴィニーを尾行したエドワーズから、エリックはヴィニーが自分に隠れて通っていた場所を知る。それはグリモーというフランス人の女性が経営する「カウンセリングセンター」だった。エリックは自分もそこを訪れてみようと決心する。
カウンセラーのジェラルディン・グリモーはヴィニーが娘を探すために自分を訪れたことを認める。そして、ジェラルディンは、最近信じられないような相談人が、次々と自分を訪れたことをエリックに告げる。
まず、メキシコ人の女性が彼女を訪れ、
「サラという女の子が夢の中で助けを求めている夢を何度も見る。」
という相談を持ちかけていた。次に、ひとりの浮浪者が訪ねてきて、
「サラは『マラディス』にいるとグリモーに伝えろと、見知らぬ男に言われて来た。」
と述べる。そして、最後に、娘のサラを失くしたヴィニーの訪問を受けたという。それが偶然なのか、誰かの働きかけによるものなのか、ジェラルディンもはっきりとは分からない。
エリックは、ジェラルディンに、同じ苗字を持つフランス人の詩人ベルナール・グリモーとの関係を尋ねる。ジェラルディンはベルナールが自分の祖父であることを告げる。
エリックは、ヴィニーとサラの写真を持ち、「夢の中の女の子」が自らそこに居ると話した、小さな田舎町、マラディスを訪れる。そこで、ヴィニーを目撃したという村人と遭う。しかし、エリックは何も確証たるものを発見できない。
ニューヨークのアパートに戻ったエリックを、年老いた夫婦が訪れる。彼らはヴィニーの大叔父と大叔母であった。ふたりから、エリックは自分の知らないヴィニーの過去を知る。それは次のようなものだった。
ヴィニーは元々ウルズラという名前であった。彼女はウェーターのアーロン・フィッシャーという男と結婚し、ユーディットという女の子を設ける。ベトナム戦争帰りのアーロンは精神に異常をきたし、ある日、ボートの中で四歳になる自分の娘を殴り殺す。彼は、妻のウルズラも殺そうとするが、彼女は水に飛び込み、岸に泳ぎ着いて助かる。アーロンは殺人罪で裁判にかけられるが、精神異常ということで懲役を逃れ、精神病院に収容される。ウルズラはアーロンから身を隠すために、「ヴィニー・マーソン」という新しい名前を名乗るようになる。
エリックは、これまで、何人かがヴィニーに対して「ウルズラ」と話しかけ、ヴィニーが人違いだとそれを否定していたことを思い出す。
エリックはエドワーズに依頼して、アーロンのその後の行方を捜す。そして、彼が二年前に精神病院か退院して、社会に復帰していたことを知る。エリックは、サラを誘拐したのが、アーロンではないかと考え、再びヴィニーが目撃された小さな町へと向かう・・・
<感想など>
この物語は「ミステリー小説」である。誘拐事件が起こり、最終的には、その犯人が分かる。しかし、その犯人を見つけ出すのが、警察でもなく、探偵でもなく、数十年前に死んだ人物なのである。そういう意味では、この物語を「オカルト小説」、超自然的な話と捉えることもできる。何十年も前に死んだフランスの詩人が、事件の解決を取り持ち、最後、つじつまが合ったようで、合わないままのようで、不思議な幕切れであった。
しかし、これはまた、インターナショナルな話である。舞台はニューヨークであるのだが、背景となる出来事の起こる場所として、ベルリン、フライブルクなどのドイツの都市、ヴェニス、そして、ネッサーお得意の「どこの国か分からないヨーロッパの国」が登場する。そして、その国のマーダムというこれももちろん架空の町で、誘拐事件が発生するのだ。
こんな展開が書けるのも、ネッサーがスウェーデン人であるからだろう。ヘニング・マンケル、スティーグ・ラーソン等のスウェーデンの推理小説が、ヨーロッパの他の国の人たちに好んで読まれるのは、その「透明度」であると思う。書いてある内容が極めて「透明」であるがゆえに、どの国の人が読んでも、自分の持っている文化を背景に、共感を持つことができる。「透明」であるということは、どの国の文化にも属さない、文化的に「中立」であることと言ってもよい。ネッサーは、舞台を架空の場所に置き換えることで、その「透明度」を更に高めている。
原題の「カーミン街」とは、エリックとヴィニーが、ニューヨークで住むようになったアパートのある場所。ドイツ語題の「庭師の視点」とは、エリックが書いた小説の名前である。その小説の中に出てくる詩が、エリックとヴィニーを結びつけることになる。それが偶然であるのか、それとも、過去の時代に生きた人物の「導き」によるものかは分からない。
この物語も特に「アクの強い」個性が登場するわけでもなく、結構サラリと読めた。「喉越しの良い」小説。
(2012年6月)