誤まりの判決
ドイツ語題:Das falsche Urteil 「誤りの判決」
原題:Återkomsten 「戻って来た男」
1995年
<はじめに>
数十年前に起こった過去の事件を、資料と、関係者の証言だけで洗い直していくという、結構よくあるパターンの推理小説。おまけに警視ファン・フェーテレンは手術の後で、まともに動くことさえできない。そんな条件の中、彼はどのような解決策を見つけていくのであろうか。
<ストーリー>
レオポルド・フェアハーフェンは一九九三年八月、十二年の刑を終えて、ウルメンタール刑務所を出る。一九五〇年代、嘱望された中距離ランナーであった彼は、ドーピング問題でランナーとしての道を絶たれる。その後、故郷のカウスティンに戻った彼は、養鶏業を始め、ある程度の成功を収めていた。しかし、一九六二年、同棲していた相手の女性、ベアトリス・ホルデンを殺害した疑いで起訴され、懲役十二年の判決を受ける。十二年の刑を終えて一九七四年に釈放されたフェアハーフェンであるが、一九八二年に再び、当時懇意にしていた女性マルレーネ・ニーシェの殺人の罪で起訴され、またも有罪判決を受け、十二年間刑に服する。そして、その八月の朝、更なる十二年の、つまり合計二十四年の刑務所生活を終えて彼は出所したのであった。彼はかつて自分が住んでいた家に戻る。
一九九四年四月、森に遠足に来ていた幼稚園児のひとりが、絨毯にくるまれた死体を見つける。その死体からは、頭、手足が切り取られていた。警察での検死の結果、死体は殺されてから半年が経ち、その死体には睾丸がひとつしかないことが確認された。死体発見から二週間経っても、死体の身元は確認できない。
マーダム警察の警視、ファン・フェーテレンは大腸に癌が見つかり、手術を受けることになっていた。病院に入り、これから手術を受けるという間際に、部下のミュンスターがファン・フェーテレンを訪れる。ミュンスターは、発見された死体が、殺人罪で二度服役したレオポルド・フェアファーレンのものであることを伝える。フェアファーレンの姉が名乗り出たのであった。
手術を終え、入院中のファン・フェーテレンは、部下のミュンスターに、フェアファーレンの過去の事件に関する資料を持って来させる。それにより、警視はフェアファーレンの陸上選手としての活躍とドーピングによる失脚の事情を知る。また最初のベアトリスの殺人事件、二つ目のマルレーネ殺人事件共に、フェアファーレンは一貫して容疑を否定し、決定的な物証もないまま、希薄な状況証拠と、目撃者の証言だけで起訴され、有罪となっていることを知る。
ファン・フェーテレンは、フェアファーレンが出所直後に殺害されたことに注目する。フェアファーレンはふたりの女性の殺人に対して実は無罪であり、真犯人を知っていた。そして、その真犯人がフェアファーレンの口を封じるために彼を殺したのではないかと考える。ファン・フェーテレンは、病院から捜査の指揮を執ることを決意する。
捜査班の一人、ルートは、フェアファーレンが服役していたウルメンタール刑務所を訪れる。そこで所長と担当の看守長と話をする。フェアファーレンは服役中、他の囚人と全く交わらず、面会も全くなかったと刑務所の職員は証言する。しかし、彼が釈放される前年、ひとりの足の不自由な老女がフェアファーレンの面会に訪れ、フェアファーレンは彼女とは会い、彼女と長時間に渡り話し込んでいたことが分かる。その老女は自らを、アンナ・シュミットと名乗っていた。また、フェアファーレンの出所の日を確認する電話があったことも分かる。それは犯人からなのだろうか。
捜査班は、フェアファーレンの隣人、かつての同級生などを訪ねる。町の人間は、フェアファーレンが釈放された日町に姿を見せたが、それ以降は誰も見ていないと証言する。
ファン・フェーテレンは、物証がほとんど無いのにも関わらず、フェアファーレンが起訴され有罪判決を受けたことの「裏」を次第に感じ始める。当時、警察も、司法も、そして市民も「犯人」が必要だったのだと。警察と検察はマスコミと世間の圧力に屈し、また陪審員も含めた市民は自分たちが平穏無事に暮らすために、何らかの「解決」、誰でもよいから「犯人」を必要とした。その結果フェアファーレンはスケープゴートにされたのだという確信を、ファン・フェーテレンはいよいよ強める。
フェアファーレンが一緒に住んでいる女性に暴力を振るったということも、彼が有罪になる重大な要素であった。訪れたミュンスターに対して、隣人の男は、ベアトリスが殺される数日前、裸でフェアファーレンの家から逃げてきて、助けを求めたと証言する。
ファン・フェーテレンは退院して家に戻る。捜査を続けようとする彼にふたつの障害が出来る。ひとつは住民達の非協力であった。フェアファーレンが犯人であること、また彼が死んだことで、町と住民達は事件に対する一応の「説明」と「平穏」を得ていた。もしこれが覆されると、別の犯人がまだ住民の中に居ることになり、それは住民達には新たな頭痛の種となる。また、もうひとつは、警察署長ヒラーからの圧力である。フェアファーレンの他に犯人がるという証拠は何もない。ファン・フェーテレンの「直感」に基づく「確信」があるだけである。署長は捜査班の解散を命じる。
手術の後で、まだ病欠期間であるファン・フェーテレンだけが、単独で捜査を続けることになる。果たして、ファン・フェーテレンは自分の直感を裏付けるだけの物証を、それも何十年も前に起こった事件に対して、見つけることができるのであろうか・・・
<感想など>
殺人事件が起こる。犯人がなかなか見つからない。警察や検察に対する世間やマスコミからの圧力が増し、警察や検察は、面子にかけても犯人を挙げなければならない事態に追い込まれる。また、殺人事件が田舎町で起こり、犯人がその町の住民であることが予想される場合、住民達はお互いに、犯人がすぐ傍にいるのではないかと疑心暗鬼に陥ってしまっている。そのような場合、「容疑者」をとにかく早く見つけ、そしてその「容疑者」が起訴され、有罪となることが、唯一の解決策なのである。
フェアハーフェンは、子供の頃から変わり者であった。一時は、ランナーとして名声を得たが、その後、ドーピングスキャンダルで町に戻ってきていた。とりあえず、彼は、犯人として、最も「当たり障りのない」人物だったわけである。しかも、ヨーロッパではほとんどの国が陪審員制度を取っており、有罪無罪は、陪審員の多数決によって決まってしまう。おまけに、この物語では、裁判長が、無罪を主張した陪審員を説得して有罪に賛成させてしまったという「おまけ」まで付く。
最初に「この人物が犯人であって欲しい」という町の住民の筋書きがあり、それに向かって全てが進んでしまったことになる。例えそれが誤りでも、それを否定することは、つまりその人物の無罪を唱えることは、住民の間に新たな疑心暗鬼をもたらすことになり、一種のタブーになってしまったのである。
この小説を読んで誰もがまず考えることは、時としてマスコミと世間の圧力によって曲げられる、司法制度の欠陥についてであろう。私が知っているだけでも、希薄な物証だけで、警察の面子のためだけに起訴されたと思われる事件がよくあった。大抵、起訴段階での無理は裁判で明らかになるのだが、いやなって欲しいのだが、そのまま有罪になってしまう人もいるのであろう。その意味では、現代の司法制度の問題に、光を当てている物語と言える。
数十年前の事件を掘り起こし、それを資料と、新たな観点からの分析で解決していく、推理小説の中でこれまで数限りなく使われたパターンである。スティーグ・ラーソンのミレニアム第一作、「ドラゴン・タトゥーの女」も、まさにそのパターンであった。
いつも楊枝をくわえている初老の警視、ファン・フェーテレン、今回は手術を受け、自分では動くことができない。しかし、入院中の彼は時間だけはある。彼は、これまでの資料を仔細に検討することが出来た。しかし、今回も彼を動かして行くのは「直感」である。そして、その直感を裏付けるための証拠が、数十年のうちにほとんど失われている。最初の事件には時効さえも成立している。彼がその大きな時間的なギャップをどのように埋め、どのような解決策を見出していくのかが、この小説の興味である。
しかし、このホカン・ネッサーの小説はいつも「引っ張りすぎ」と言う印象を受ける。つまり、三百ページの本で、最初の二百七十ページくらいまで、話が全然進展しない。つまり作者が手の内を明かさない。そして、最後の三十ページで全てが解決するという展開。読者の興味を最後まで引き付けようという意図なのだろうが、行き過ぎると、全然進展しないストーリーに苛立ってしまう。
また、警視「ファン・フェーテレン」と被害者「フェアハーフェン」というふたりの名前が似すぎていて、読んでいると少し混乱する。
よく考えられた筋書きである。及第点を与えて良い推理小説だと思う。
(2011年3月)