「目の粗い網」
原題:Det grovmaskiga nätet
ドイツ語題:Das grobmaschige Netz
1993年
<はじめに>
警視ファン・フェーテレン・シリーズの第一作目。彼は、今回は最初から後手に回りながらも、常に他人より一歩先んじる洞察力で、捜査の網を絞っていく。どこでもない、しかしどこでもある、ヨーロッパの架空の都市、マーダムを舞台に。
<ストーリー>
ヤネク・ミッターは十月のある朝、ひどい頭痛で目を覚ます。一瞬自分が誰であるか思い出せない。不快感と吐き気のため、彼は浴室に向かう。扉が閉まっている。扉をこじ開けると、浴槽の中で、結婚したばかりの妻、エファ・リングマーが死んでいた。
ミッターの通報によって駆けつけた警察は、他に何者かが侵入した形跡もないため、ミッターを容疑者として逮捕する。しかし、ミッター自身、前夜、食事の後、妻とワインを飲み始めた辺りからの記憶を失っていた。
ミッターはマーダムの街のブンゲ・ギムナジウム(高校)で、歴史と哲学の教師をしていた。妻のエファは、二年前に語学教師として同じ学校に赴任をしてきて、六月に結婚をしたばかりであった。
事件を担当したのはマーダムの警察。ミッター殺人罪で起訴される。しかし、警視のファン・フェーテレンは、ミッターを犯人とすることに不自然さを感じる。彼は、殺されたエファの故郷である海辺の村を訪ねる。そこで、ファン・フェーテレンは、エファの年老いた母に会い、エファの子供の頃の、不幸な家庭環境を知る。エファと双子の兄弟であるロルフは、自分たちに暴力を振るう父親と、それを止めることの出来ない母親の間に育った。エファは高校卒業と共に家を出て、ロルフはカナダに渡ったという知らせを受けたきり、行方不明になっていた。父親が死亡した後も、エファは故郷には戻ることはなかった。
ミッターの裁判は、全国から注目を浴びる。弁護士リューガーの努力と、ファン・フェーテレンの疑問にも関わらず、ミッター有罪判決を受け、懲役六年の刑が言い渡される。しかし、記憶を失っていた彼は、心神喪失状態であるとして、刑務所ではなく、精神病院に収容される。
ある真夜中、ミッターは病室で目を覚ます。そして、失われた記憶の一部が蘇ってきたことを感じる。エファが殺された日、自分たちを訪ねてきた男があった。そして彼は、それが誰であるかを思い出す。彼はその男の名前を枕元の引き出しの中にあった聖書の一ページに書き付ける。
翌朝、ミッターは看護師に封筒と便箋を持ってきてくれるように頼む。彼は誰かに手紙を書く。彼は警察に電話をし、ファン・フェーテレンと話をしようとするが、つかまえることができない。
数日後の深夜、何者かがミッターの病室に侵入する。翌日、ミッターが刺殺されているのが発見された。女装をし、見舞い客を装って病院に侵入した男が、深夜になるまでどこかに隠れ、皆が寝静まってから犯行に及んだことが明らかになる。
ファン・フェーテレンはエファとミッターを殺した犯人が同一人物であることを本能的に知る。ミッターはエファ殺しの犯人ではなかった。犯人は、ミッターが自分の存在を思い出したことを知り、ミッターの口を封じるために彼を殺したのだと、ファン・フェーテレンは推理する。
彼は二つの観点から捜査の網を絞っていく。
まず、ミッターが病院から手紙を出した相手が誰であるかという点。ミッターは手紙の宛先を書くにあたり、住所録を見ることも、電話番号簿を見ることもしなかった。彼が覚えているような住所。人間、それほど沢山の住所を宙で覚えているものではない。ファン・フェーテレンは、ミッターが封筒の宛先に書いたのは学校の住所ではないかと推理し、学校の職員全員に対するアリバイ調査を始める。これを担当するのが、同僚のミュンスター等である。
次に、エファ・リングマーの過去。ファン・フェーテレン自身は、母親を始め、エファの別れた夫、友人、もとの職場の同僚に会うために、国中、あちらこちらを走り回る。そして、これまでエファの周辺に、不思議な死亡事故と、常に男の影があったことに気がつく。
そして、その山の両側からトンネルを掘るようなアプローチが、真ん中で出会うチャンスが到来した・・・
<感想など>
基本的に、読者は最初から、ミッターが犯人ではなく、他の男が犯人であることを知っている。それは、ときどきその男の独白が挿入されるからだ。もちろんそれが誰の声であるのかは明かされてはいない。
先にも書いたが、舞台は、どこでもあり、どこでもない、マーダムと言う架空の都市。しかし、架空の場所で話が進むのに、なかなかリアリティーがあり、どの場面も、情景が思い浮かぶようである。
ともかく、ファン・フェーテレン・シリーズの第一作。
ファン・フェーテレンは五十歳を過ぎ、定年退職が既に眼中に入り始めた警視である。彼は、最近身体にガタがき始めた。永年連れ添った妻イレーネとは別居中、成人した息子は刑務所で服役中と、あまり幸せとは言えない私生活を送っている。警察での仕事にも嫌気が差し、違うことをしたいと思いつつも、彼の能力を買っている上司のヒラーの説得により、まだ職にとどまっている。常に爪楊枝をくわえ、それを噛み、時々吐き出すという癖がある。
彼の能力は優れた分析力と洞察力である。同僚よりも、常に一歩進んで物事を考えている。それが、時には同僚に「何を考えているのか分からない」という印象を与えるが、その洞察力の確かさ故に、彼は上司のヒラーを始め、同僚からの尊敬を得ている。しかし、彼自身、その同僚からの尊敬を誇りに思うどころか、むしろ迷惑に思っている。家庭的にそれほど順調であるとはいえない彼は、休暇でリラックスすることと、退職してもっとイージーな生活を送ることに恋焦がれている。
彼自身は、自分の洞察力が特に優れていることを知っている。ミッターが犯人であるこという結論に引っかかりを感じる。それは彼の洞察力プラス直感からである。
「彼にはどうしても確信が持てなかった。十件のうち九件まで彼は確信が持てる。正直に言うならばその確率はもっと高いかも知れない。二十件のうち十九件まで、ファン・フェーテレンは容疑者が真犯人であるかどうかを知ることができた。
どうして自分のそんな才能を隠す必要があるのだろうか。物事の中には常に、色々な方向を指している小さな『印』が無数にあるものだ。そして永年の経験により、彼はその『印』が何を意味しているかを学んできていた。」(32ページ)
しかし、彼は部下のミュンスターに、「捜査官にとって一番大切なものは何か」と聞かれたときに「Determinante」決断力、決定力であると述べる。ミュンスターもその耳慣れない言葉に一瞬戸惑うのであるが、私も、それが何を意味するのか分析するのに悩んだ。ファン・フェーテレン一流の冗談かもしれないが。
タイトルの「目の粗い網」と言う言葉を使うのは、ファン・フェーテレンの部下のミュンスターである。彼は「Deterninante」という言葉の意味にあれこれと考えを巡らせる。
「その言葉が本心なのか冗談なのか確信が持てなかった。しかし、確かに多くの事が、目の粗い網によってのみ、真剣さと道化芝居から掬い取られるということは、本当らしく聞こえ、ごく普通にありそうなことだ。」(240ページ)
これもなかなか哲学的で、理解に苦しむ表現である。
完全にを記憶を失ったミッターが、あまりにも簡単に有罪になってしまうのに、少し不自然さを感じた。過去に前妻に二度手を挙げたというだけで、暴力的と判断されるのは、陪審員制度と言えども、あまりにも行き過ぎのような気がする。
また、カーンと名乗る、精神分析のカウンセラーが登場し、オーストラリアに移住した彼にファン・フェーテレンが電話するが、この男、カーンは一体何のために登場するのかよく分からない。
ともかく、このシリーズ、引き続き読んでみようという気にはなった。
(2008年12月)