なごり雪
復活祭はシュテフィーの湖畔の別荘で過ごした
大学三年から四年の春にヨーロッパを旅した。大学で僕はドイツ文学を専攻していた。
もっとも陸上競技の練習に明け暮れて、学業の方は余り熱心でなかったが。また、外国語を読むことはともかく、話すことは余り得意ではなかった。余談になるが、日本語でもお喋りな人間、音楽などをやって耳のいい人間は、外国語の上達が早いと思う。残念ながら、僕自身はどちらにもあてはまらなかった。それでもドイツ語を習っているうちに、その言葉が日常的に話されている国を自分の目で見たくなった。そう思ってから、僕は夜に塾の講師のアルバイトを始め、一年で約二十万円の金を貯めた。それに、父から借金を加え、五十万の金を準備した。父には、今後一年間、二万円ずつ仕送りを引いてもらうことで話をつけた。当時はまだ飛行機の切符が高価で、一番安いと言われている、大韓航空のオープンチケットが二十万円弱した。一年のオープン切符と、三十万円ばかりの現金と、三ヶ月有効ヨーロッパ内乗り放題の切符を持って、寝袋をくくりつけたアルミフレームの登山用リュックサックを背負い、三月の始め、金沢を後にした。
当時、個人的には少し危ない状態だった。三年間付きあってきた恵美に、僕の他に好きな男ができて、もういよいよだめかなというところまで来ていた。恵美は同じ陸上競技部の選手で、大学一年の頃から付き合い始め、僕のアパートによく泊まっていた。彼女は足が早く、学生の試合で彼女が負けたのを見たことがなかった。僕は、彼女に未練があった。しかし、恵美との問題で、まるまる一年間かけて準備をした旅行をとりやめることは考えられなかった。
出発の前日、ドイツ文学研究室の先生と仲間が送別会を開いてくれた。当時は、学生が海外旅行をするなど、かなり珍しいことだったのだ。中華料理屋の二階での宴会で、酒を飲んだ後、いつものようにひとしきり歌を唄った。当時は、座敷にカラオケなどなく、手拍子だけが伴奏の歌だった。
一九七九年三月四日、六時過ぎにアパートを出て、リュックサックを担ぎ、片手には観葉植物の鉢を持って、金沢駅まで歩いた。駅には、恵美が来ていたのは約束通りとして、その他に陸上競技部の同級生が三人見送りに来てくれていた。思いがけない見送りに、僕は感激した。観葉植物を恵美に預け、六時五十六分発、上野行の「白山二号」に乗った。みぞれが降っていたが、春のこととて、積もるには至らなかった。
「動き始めた汽車の窓に、顔をつけて、君は何か言おうとしている。
君の唇が『さようなら』と動くことが、こわくて下を向いてた。
君が去ったホームに残り、落ちては溶ける雪を見ていた。」
夕べ、送別会の席で唄った歌の一節を思い出した。
東京では、代々木のユースホステルに一泊した。翌朝、ユースホステルを出るときに、同室だった青年に、これからどこへ行くのかと聞かれた。その青年はこれから仕事に出るらしく、ネクタイをしめているところだった。僕はヨーロッパと言わないで、東北地方に行くと嘘をついた。当時、学生の海外旅行はまだまれだったし、地方から出てきて、出張費を浮かすためにユースホステルに宿泊し、東京で今日一日働く僕と歳の変わらない青年に、これから三ヶ月遊びに行くとは言い辛かった。でも、彼に嘘をついたことで何か後ろめたい気がした。
開港間もない成田空港を飛び立ち、ソウルで飛行機を乗り換え、アンカレッジ経由でパリに降りた。パリに三日間滞在したあと、ドイツに入った。知り合いのいるレーゲンスブルクに三、四日滞在した後、一ヶ月かけてドイツを回った。復活祭はミュンヘン郊外のシュテフィーという女の子の別荘で過ごした。彼女は、一年前に日本へ来たことがあり、そのとき奈良を案内したことがあった。湖のほとりの別荘で、シュテフィーの親戚に囲まれて過ごした三日間は、とても楽しかった。その後、オーストリアからイタリアへ。イタリアでは、ヴェニス、フィレンツェ、ヴェロナなどを訪れた後、再びドイツに戻った。
ドイツのレーゲンスブルクに住む金沢大学からの留学生が僕の連絡先になっていた。彼のもとに、僕宛の手紙が何通か届いていた。その中に恵美からの手紙もあった。恵美からの手紙には別れ話が書いてあった。彼女が書いてから一ヶ月遅れでは、読んでいて何か間の抜けた感じがした。その夜、彼女に手紙を書いた。
「気持ちは分かったが、こちらが旅行中で何もできないときに、終わってしまうことは自分で納得できない。旅行から帰って金沢に着いたときは、迎えに来て欲しい。それがお前に会うことを楽しみに旅をしている男への礼儀ではないのか。迎えに来てくれて、駅でお前の顔を見たら、次の瞬間に別れても、文句は言わない。」
僕はそう書いた。
僕は恵美のことを好きだったが、心の中で、彼女とは結婚までいくことはないと予感していた。恵美とは同い年で、当時まだふたりとも二十歳。二十五歳で結婚するとしても、ふたりが各々の生き方を追い求めた場合、五年間一緒にいられるか、五年後にまたふたりの接点を見出すことができるかと言う点に、僕には自信がないと言うか、悲観的だった。僕はそのことを恵美にも言っていた。
「お前とはいつか別れると思う。だけど、僕がどんな死に方をしようとも、死ぬ前の一瞬に、必ずお前のことを思い出すから、それで許して欲しい。」
僕は、彼女にそう言ったことを思い出した。
四月も終わりに近づき、そろそろ学校のほうも心配になり始めた頃、父が手紙で、姉の結婚式が五月の中旬にあるので帰れと言ってきた。僕は、帰りの飛行機を予約し、五月一日、レーゲンスブルクを発ち、飛行機が出発するチューリヒに向かった。途中、ミュンヘンで汽車を乗り換える時、シュテフィーが見送りに来てくれた。チューリヒ行の汽車が出るまで、彼女とカフェテリアで話をした。動き出した汽車からホームで見送る彼女を見ながら、何時の時も見送る人があることは本当に有り難いなと思い、見送りに来てくれた彼女に、手を合わせたくなった。
チューリヒから乗った大韓航空機はジッダ、バーレーン、バンコック、マニラ、ソウルを寄港し丸二日かかって成田空港に着いた。中近東には韓国の出稼ぎ労働者が多いのか、ジッダ、バーレーンではテープレコーダーなどの電気既製品を機内持込みにした韓国人が沢山乗り込んできた。チューリヒは雪模様の天気だったが、三時間ほど飛んだサウジアラビアのジッダは気温が三十五度で、飛行機の扉が開けられると、オーブンの戸を開けたときのように熱風が吹きこんできた。途中、マニラのホテルで一泊した。真夜中だったが、体重百キロを超える大男のスイス人と、韓国人の空手の先生と一緒なら安心だと思い、ホテルの外に出た。子供がばらばらと駆け寄り、煙草を買ってくれと言う。余りそれがうるさいので、早々にホテルへ戻った。
成田空港では、僕の荷物がソウルに残って、荷物なしになってしまったが、その夜は幸運にも、飛行機の中で一緒だった空港の近くに住む青年の家に泊めてもらうことができた。翌日荷物を受け取った後、新幹線で京都に向かい、京都の実家で一泊した後、五月四日の夕方、ちょうど二ヶ月ぶりに金沢駅に着いた。
恵美が駅に迎えに来てくれていた。彼女は、出発の際に預けた観葉植物の鉢を持っていた。旅行をしていた二ヶ月間、余りにも色々なことが起こり、色々な人と出会ったので、正直、恵美のことは頭の片隅に押しやられていた。
「葉っぱくん元気だった?」
僕は聞いた。葉っぱくんは、観葉植物のことである。
「毎日、水をやっていたら、新しい葉がでてきた。」
と恵美は言った。
それからふたりで僕のアパートに向かって歩き出した。風の柔らかい穏やかな夜だった、途中、川のそばにふたりで座った。夏の盛りの暑い夜に、ふたりでそこに腰をかけて、よく涼んでいた場所だった。
「気にすることはないさ。もし俺たちが結婚しないなら、いずれは別れねばならない。今回はおまえの方から別れようと言ってきたけど、この先一緒にいても、ある日僕が別れようと言い出すことになるかもしれない。そう思えば、お互い様さ。」
僕は恵美にそう言った。彼女は泣いていた。その晩は、彼女と抱き合うこともなく、キスをすることもなく別れた。
僕としては、その夜、格好良く別れたつもりだった。しかし、それから一年間、酒を飲むと、無性に腹が立って、いても立ってもいられなくなるのだった。街で飲んで、歩いてアパートへ帰る途中、糞とか、畜生とか言いながら、ごみ箱と、ポスト、電柱などを片っ端から蹴飛ばしながら歩いたものだった。頭と言うか、心と言うか、半分だけが抜け落ちたような気分だった。その気分は、今の妻と出会うまで一年半くらい続いた。その間、酒を飲んでは何かを蹴っ飛ばしていたわけだ。
この旅行は別の意味でも、僕の人生を変えた。
幼い頃から、漠然と外国で暮らしてみたいと思っていたが、旅行から帰って、ドイツでもっと長く暮らしてみたいという気持ちが強くなった。いや、それが人生の目標になってしまったと言って良い。そうたびたび旅行はできない。僕が考えたことは、国費留学生の試験に合格することだった。大学から、米国に一人、欧州に一人、毎年留学生の枠があった。大学院に入ったのも、将来ドイツ語で飯を食うためと言うより、その間に留学したかったためである。
大学院の二年め、大きなチャンスがあった。留学生試験を受けたが、受験者の中で、一番よく出来たと言う自信があった。ところが、その年、僕の大学からヨーロッパ向けの留学生はゼロ、つまり受験者全員が不合格になってしまったのだ。その代わり、他の大学から誰かが行くという。文部省の誰が決めたか知らないが、その他の大学の合格者と僕は同じ試験を受けていない、選抜試験は大学ごとに行われたのである。そいつが、僕よりもよく出来ると、何を基準に判断されたのか未だに納得がいかない。自分が合格すると疑わなかったがゆえに、その時のショックは大きかった。恵美に振られたときと同じくらいの衝撃だった。大学の教務課で知らせを聞いた後、僕は一人グラウンドに出て走り出した。そうでもしないと、どうしていいか分からなかった。
数週間して、教務課に再び呼ばれた。留学に辞退者がでたので、枠が僕にまわってきたということである。ただし、奨学金は出るが、往復の飛行機は自分持ちと言う条件だった。自分で払える金額ではない。僕は、飛行機代を出してくれるよう、父に交渉した。
「海外に出たいのは分かるが、歳を考えて、もう働いたらどうか。留学して海外に行くのも、仕事で海外に出るのも同じだろう。」
と言うのが父の意見だった。その時、僕はもう二十六歳で、留学して帰ると二十八歳になっているはずだった。就職が遅れるのは仕方がないとして、当時かなり真剣に付き合いはじめていたマユミのことも心配だった。僕は留学を諦めて、次の日から、就職先を捜すことにした。
就職が決まり、翌年の三月より、僕は富山県のある会社で二十七歳の新入社員になった。そして、ドイツ語が堪能ということで入社半年後に、ドイツに転勤が決まった。一応夢が叶ったわけだ。「留学して海外に行くのも、仕事で海外に出るのも同じだろう。」と父は言ったが、果たしてそうなんだろうかと僕は思った。
その時既に、前回のヨーロッパ独り旅から、五年半の歳月がたっていた。