ベルントとの旅
ベルントと、プットガルテンにて
初めてベルントと話したのは、ニュルンベルクのユースホステルの玄関だった。
「もう晩飯はすんだ?」(Hast du schon abendgegessen ?)
と、お互いに尋ね合った。ふたりとももう食事は済んでいたので、街中へビールを飲みに出かけることにした。
その日の昼間、僕はニュルンベルクの駅に着いた。リュックサックを背負い、駅から外に出ると、街を取り囲む壁と、一定間隔で立つ円筒形の見張りの塔が目に入った。街は煤けた灰色の印象が強かった。ミュンヘンの街の明るい印象に比べ、対照的な街だと思った。駅を出て、中世の門をくぐり、街中のザンクト−ロレンツ教会に行った。この教会も、外観は煤けた灰色だった。しかし、中は意外に明るく、ステンドグラスは一枚一枚が独立した場面を表し、なかなか凝った造りになっていた。教会の中に立っている彫刻の人物像も、中世の物語の挿し絵に出てくるような、少しひょうきんな顔をしていた。
壁で囲まれた街の一番奥に、ブルクと呼ばれる城塞があった。僕が泊まったユースホステルはその城塞の中にあった。夕方、そのユースホステルに荷物を置いた僕は、その玄関で出会った、ベルントという宿泊者のドイツ人の青年と、ビールを飲みに行くことになったわけである。ベルントは僕と同じで二十歳くらいだったが、灰色の髪で、頭のてっぺんはもう薄くなっており、口髭をはやしていた。彼も僕と同じバックパッカーだった。
ふたりで石畳の坂道を降りて街へ出たが、ふたりとも初めて来た街なので、どこへ入っていいのか分からない。それで、通りすがりのふたりの青年に、どこか安い店がないか尋ねた。トーマスとライナーと言うその青年たちも、ちょうど飲みに行こうとしていたところで、四人で一緒に一軒のビヤホールへ入った。テーブルの真ん中のロウソクを囲みながら、四人でビールを飲んだ。マインツ出身のベルントの話すドイツ語はまだ少し理解できたが、他のふたりの話すバイエルン方言は、普通の速度で話されると、全く聞き取れなかった。会話に付いていけないので、チューインガムの包み紙で折り紙を作り、ふたりの青年に進呈した。折り紙は結構受けた。
ユースホステルの門限が十一時半なので、十一時になって店を出た。トーマスとライナーと別れ、ベルントとふたり、また、石畳の坂道を城塞に向けて上って行った。トーマスとライナーには、この先どんな奇遇があったとしても、二度と会うことはないだろうと思った。僕はキャット−スティーブンスの「雨にぬれた朝」(Morning Has Broken)の口笛を吹いた。ベルントがキャット−スティーブンスが好きだと言い、「雨にぬれた朝」は僕の唯一知っている曲だったからだ。
「おいおいやめてくれよ。朝はまだまだ来ないぜ。(MorningはまだBrokenしないと彼は英語とドイツ語を混ぜた。)俺達はこれから寝なくちゃならないだから。」
ベルントが笑いながらそう言った。
それからの四日間、僕はベルントと一緒に旅を続けた。
次に訪れたのはバンベルクという街だった。ニュルンベルクでは二泊したが、二日目の夜もベルントとビールを飲みに出かけ、その時一緒だったもう一人の男が、バンベルクがいいと言っていたので次の目的地に決めたのである。
果たして、バンベルクは期待に違わぬいい街だった。ドイツの街の例にもれず、街の真ん中に大きな教会、ドーム(大聖堂)がある。バンベルクのドームは四本の尖塔が立ち並ぶ壮大なものであった。
ふたりで、街外れの小高い丘の上にある修道院へ行った。下から見ると、緑に蔽われた高台のうえに建っている様子が素晴らしい。修道院の中は、ロココ風の白いチョコレート細工のような造りで、天井に描かれている植物の模様が美しい。何故か、ドクロ、骸骨の彫刻、レリーフなどもたくさんあった。修道院の中庭もきれいだったが、何より丘の上から見る街の眺めは最高であった。川と、丘と、その間に建ち並ぶ赤い屋根のごちゃごちゃとした家々。いかにも中世風であった。久しぶりに天気が良く、空気が澄みわたり、赤い屋根瓦が陽に輝いている。
昼になったので、ベルントとふたり丘から下りて、川のほとりの食堂に入った。バンベルク名物のラオホビヤー(煙のビール)を注文する。これも、昨日出合った青年から噂を聞いていたものだ。濃い色で名前の通り焦げ臭い香りがし、飲んでみると少し紅茶のような味がした。
午後は、川のほとりでのんびりした後、建物に挟まれた狭い小路を歩いた。ある新教の教会に入ると、オルガニストがちょうど練習の真っ最中であった。誰もいない平日の午後の教会、ふたりでそのオルガンの音色に聞き入った。とても贅沢な気分になった。金を一銭も払わなくても贅沢な気分になれるんだなと、僕は思った。
夕方、十七時四十分発の汽車に乗り、ベルントと僕は次の目的地、ヴュルツブルクへと向かった。
ヴュルツブルクへ着いたら辺りは完全に夜の闇に包まれていた。駅から地図を頼りにふたりですきっ腹をかかえてユースホステルへと向かった。ユースホステルに着くやいなや、ふたりで部屋で食事を始めた。汽車に乗る前に、ベルントはパン、僕はソーセージとサラダを買っておいたのだった。彼は、チーズ、キュウリ、お茶、携帯コンロ、アルミニウムの鍋などを携行していた。ベルントがコンロでお茶を沸かしてくれた。グリーンティーである。容器が汚れているので、油が少し浮いていたが、思いがげず、暖かいお茶をすすりながらの豪華な夕食になった。ベルントは、
「茶を飲むと眠気覚ましになると言うが、茶の葉は五分湯に浸けると、興奮作用だけではなく、催眠作用を持つ要素が出てくる。」
と教えてくれた。彼はなかなかお茶に詳しい。
そしてベルントは金を使わない。ベルントと一緒にいると、こちらも金を使わないのでよい。バンベルクで食堂に入ったのは、名物のラオホビヤーを飲みたいがための唯一の例外で、大抵は、店で買ったパン、果物、ソーセージ、チーズにお茶か缶ビールと言うメニューを、公園、駅の待合室、ユースホステルの部屋などで食べた。実際、日本人の旅行者はバックパッカーと言えども、金を持っている。僕も、三十万円くらい持って来ていた。それで三ヶ月暮らすのであるから、多いとは言えないが、それでも、二日に一度はレストランで食事をしていた。日本人以外の旅行者の若者は実に慎ましい。絵葉書一枚買うにしても、どれにしようかと思い悩んでいる。
ふたりで、旅をしていると、会話をすることにより、喜びも二倍になるし、何より時間がつぶれてよい。ベルントと一緒にいるのはまだ三日間だけだが、もうずっと彼と旅をしているように思えてくる。
翌日午前中にヴュルツブルクの旧市街を見てまわった後、マイン河の向こう岸の丘の上にそびえるマリエンブルク城へ登った。坂道を上り、いくつかの門をくぐり、石段を上がり城に着いた。城はあいにく工事中で、クレーンがやかましく動き回っている。石垣の上を一回りする。上からの眺望は素晴らしい。マイン河の対岸に赤い屋根の家々と多くの教会が見える。何と教会の多い街なんだろうと僕は思った。
望遠鏡があったので、二十ペニヒを入れてふたりで交互に覗いてみる。
「俺達の泊まったユースホステルが見えるぞ。あっ、俺達の部屋の窓だ。窓の外におまえの置いてきたミルクが見える。」
ベルントが言った。その日の昼食をユースホステルの部屋で食べた後、残ったミルクを、部屋の中は暖かく痛むといけない、外の方が涼しくていいだろうと思い、僕はミルクを窓の外に出してきたのであった。
「ミルクは無事か?」
と聞くと、ベルントは、自分で見てみろと代わってくれた。覗いてみると、ミルクを置いてきた窓際には、午後の太陽がさんさんと降り注ぎ、ミルクは十分に暖まっているようであった。ふたりは、その場でしばらく大笑いをした。
ベルントとは、ヴュルツブルクから乗った汽車が、ハノーヴァーで停まった時に別れた。彼はその近くのリューンネブルガーハイデ(リューネブルクの荒野)が見たいと言ったが、僕は余り興味がなかった。僕は、そのままハンブルクまで行き、そこで三日ほど過ごした。天気が悪かったのと、風邪をひいていたので、ハンブルクでは映画ばかり見ていた。少し元気になったので、北のリューベックと言う街に向かった。
駅に着いたあといつもすることは決まっている。先ず、重いリュックサックをコインロッカーに預けて身軽になる。その後、駅前の観光案内所で只の地図をもらい、後はそれを片手に、大きな街ではバスか市電に乗り、小さな街ではひたすら歩きまわるのである。その日も、僕は、ハンブルクの駅で会った橋爪君という日本人の学生とふたりで、小雨の中、リューベックの街を歩き出した。
リューベックはトーマス−マンの「トニオ−クリューゲル」の舞台になった古い街である。駅を出てすこし行ったところに、ホルステン門という、重厚な、少し傾きかけた門が黒々と建っている。当時の五十マルク紙幣に印刷されていて、ドイツ人にはお馴染みの建物である。街中の建物に使ってある石のせいか、街全体がベージュ色に統一されていて、飾り気のない素朴なたたずまいの、きれいな街だった。港があり、港から運河が伸びていた。港にはスウェーデンの軍艦が入港しており、運河の側のカフェに入ると、スウェーデン人の水兵でいっぱいだった。文字通りセーラー服の水兵の間を、金髪のきれいなウェートレスがてきぱきと働いているのを、僕は映画のシーンを見るように眺めていた。後で知ったが、その翌日、スウェーデン国王夫妻がリューベックを訪問されたということであった。
夕方、橋爪君とユースホステルへ向かった。ユースホステルの前で、ベルントに出会った。彼は女の子と一緒だった。例によって、夜にビールを飲みに出かけた。今回は、橋爪君と、ベルントの新しい連れの女の子の四人で行った。僕とベルントは売春制度とか、原子力とか、わりと固い話をし、時々、ベルントが女の子とふざけ、その時だけ、ドイツ語が全然わからなくなるので僕が少ししゅんとする、といった具合で時間が過ぎた。橋爪君はドイツ語全然だめ、英語も片言ながら、一所懸命女の子に折り紙を教えたりして、頑張っていた。
翌日、海が見たいと言うベルントの提案に乗ったかたちで、橋爪君と三人、またまた北へ向かう。乗った汽車はローマ発、コペンハーゲン行というとんでもない長距離列車であった。プットガルテンという島の上にある駅で降りる。降りるも何も、この先は汽車がそのままフェリーに積まれてしまい、降りないとデンマークに運ばれてしまうのでる。
海岸へ向かって歩き出す。天候が怪しくなり、海岸沿いを歩く頃には風と雨がひどくなっていた。海の珍しいベルントと橋爪君はそれでも、海だ海だと騒いでいたが、僕は自分の住む金沢で海など見飽きるくらい見ている。それでも、バルト海は、もう二度と見ることもないだろうと思い、寒いのを我慢してしばらく海岸にいた。三月とは言え、海は灰色っぽい緑色で、日本海で言うと、冬の色である。駅に帰り着く頃には、余りの風の強さと寒さで、めまいがして倒れるのではないかと思ったほどだ。駅のカフェで熱いコーヒーをすすり、三人とも一息を入れた。橋爪君の持っていたカメラで、三人で記念撮影をする。(ベルントと僕はカメラを持たないで旅行をしていた。)
その後、十三時十分発の南へ向かう汽車に乗る。ベルントはリューベックで下車し、僕はそのままハンブルクに向かった。彼と二度目に別れてから、
「すまん、今度はもっとドイツ語が上手になって来るからな。そうしたら、もっと色々話をしようぜ。」
僕はそう思った。
それから、約十日間、ライン河、モーゼル河沿いの都市を回り、ハイデルベルクで大学の先生が紹介してくれた家族の世話になり、旅行の出発点となったレーゲンスブルクに帰ってきた頃はもう四月になっていた。レーゲンスブルクには、同じ大学の先輩の小沢さんと言う方が留学しておられ、そこを拠点にさせてもらっていたわけだ。
レーゲンスブルクで数日過ごした後、僕は、ベルントがマインツの近くの家に一度来いよと言っていたのを思い出し、彼を訪ねて見ることにした。彼の大学はまだ休みのはずである。電話一本かけずに、突然訪ねて行くということに、二十歳の当時は何の抵抗も持たなかった。翌朝、六時〇三分発フランクフルト行きの急行列車に乗った。三ヶ月有効のヨーロッパ内乗り放題の切符を持っているので、交通費の心配はない。ニュルンベルクでインターシティー(特急)に乗り換え、マインツで降り、そこからSバーン(大都市の近郊を走る電車、国電)に乗り、グスタフブルクと言う駅で降り、そこからは住所を頼りに、昼前には迷わず彼の家に着いた。彼は、家の前で、弟のヴォルフガングと庭仕事をしていた。僕の顔を見るととても喜んでくれた。
ベルントのお母さんが僕の分も昼食を作ってくれた。白いソースのかかった茹でたソーセージはとても美味しかった。ベルントは、僕と旅先で出会って、一緒に旅をした様子を、お母さんい手短かに語った。お母さんは、
「ベルントったら、旅行から帰って、グスタフブルクの駅に着いた時、もう、一マルク(当時の百円)も持っていなかったんですよ。」
と言って笑った。僕も、旅行中のベルントのケチケチぶりを思い出して笑った。ベルントより三歳ほど年下の、弟のヴォルフガングは、動物が好きで、鳥、ハムスター、カエル、金魚、熱帯魚など色々な動物を飼っていて、それを僕に見せてくれた。午後は、ベルントがマインツの街を案内してくれた。マインツの名物は、巨大な大聖堂と、世界で初めて活版印刷で聖書を印刷したグーテンベルクらしい。夕方に、お父さんが帰って来られ、国鉄で運転手をしている伯父さんも訪ねてこられ一緒に夕食をとった。皆、僕を歓迎してくれた。夕食後、ベルント、その両親、運転手の伯父さんとヴァインシュツーベ(ワイン酒場)へ行った。古くて静かな店で、なにより普通のドイツ人の家族の中での会話は、なかなか得られない体験だけに嬉しかった。その夜は、地下室にベルントとふたりベッドを並べて眠った。
翌朝、ベルントと弟のヴォルフガングと三人で、ライン河とマイン河の合流地点へ行った。ライン河とモーゼル河の合流地点はドイチュエッケ(ドイツの角)と呼ばれ、立派な記念碑が建っているのに比べ、そこは葦がまばらに生えた、広い何もない場所だった。でも、若者が三人でいるのに、何となくふさわしい場所のように思われた。広い河の向こうに、マインツの街が見えた。春の陽光を浴びて、名物の大聖堂が一際高く聳え立っていた。
十一時四十四分のSバーンでグスタフブルクの駅を出て、レーゲンスブルクに戻った。駅のホームで、ベルントが見送ってくれた。その後、橋爪君からは写真と手紙をもらったが、ベルントには手紙を書くこともなかった。
それから十二年の歳月が流れた。旅から帰った僕は、再び大学に通い、大学院に進み、就職をした。そして、ドイツに転勤になり、マーブルクという小さな街で働いていた。あるとき、新しいコンピューターの研修で、一週間マインツのIBMへ通うことになった。フランクフルトでSバーンに乗り換えマインツに向かっていると、グスタフブルクと言う駅に停まった。そこは、ベルントを訪ねたときに降りた駅であることを思い出した。高架になっている駅の様子にも少し見覚えがあった。十二年前の出来事が堰を切ったように頭に溢れ、急にベルントに会いたくなった。住所はもう持ってないし、十二年前の記憶を辿って彼の家を捜す自信もなかった。
午後、研修が終わりマインツの駅に戻ったとき、僕は電話帳でベルントの姓の「パチョフスキー」を捜した。珍しい苗字であるので、捜し当てられることを期待した。しかし、いくら捜しても、それらしい名前は見つからなかった。僕は少しがっかりして電車に乗った。電車は来た時と同じように、グスタフブルクの駅に停まった。そして、また走り出した。