原題:The Inoccent「無垢なる者」
ドイツ語題:Eine Japanarin in Florenz「フィレンツェの日本人」
(2006年)
<はじめに>
ドイツ語は「日本人」と言っても、男性と女性で単語が違う。この小説、ドイツ語の題は「フィレンツェの日本人女性」なのだが、そう訳すと、何だか随分間が抜けてしまう。ともかく、日本人女性をめぐる物語。フィレンツェの手作り靴職人に弟子入りした、若い日本人女性、アキコをめぐるストーリーである。
<ストーリー>
季節は五月、フィレンツェは気持ちの良い日が続く。そんな陽気に誘われて、市内のパトロールに出かけるガルナシア。市内は既に観光客でいっぱいである。彼は街を巡回しながら、靴職人のペルッツィ、食堂の経営者ラポ、骨董品店の経営者で古美術品の修復をするサンティーニら、住人との会話を楽しむ。長年フィレンツェの街に住むガルナシアは、町の人に溶け込み、住人からはそれなりの尊敬を集めてはいるが、誇り高いフィレンツェ人は閉鎖的で結束が固く、シチリア出身のガルナシアには、未だに生粋のフィレンツェ人を「異星人」のように感じるときがある。
そんな五月のある日、ボーボリ公園の中にある池の中から、女性の死体が発見される。数週間水の中に浸かっていたらしく、腐敗が進んだ上、魚に食べられて顔は殆ど残っていなかった。浅い池で、誤って転落しても、とても溺れ死ぬような場所ではない。ガルナシアは、他殺であると考える。小柄で若い女性の死体は、上着から下着に至るまで、高級品を身につけていた。そして、死体の傍では靴が片方しか発見されなかった。
数ヶ月前に、ガルナシアの部署に、エスポジトという警察学校を出たばかりの若い警官が配属された。ガルナシアと同じくシチリア出身のエスポジトは、優秀な成績で学校を出ただけでなく、なかなかハンサムな男であった。妻のテレサも彼のことを気に入り、ガルナシアは、エスポジトの将来に期待をかけていた。ところが、そのエスポジトが「心ここに在らず」という行動を取るようになる。ガルナシアがどうしたのかと尋ねると、故郷の母親が病気だと言う。ガルナシアはエスポジトに、母親を見舞うための休暇を取ることを認める。
ペルッツィを訪れたガルナシアは、靴職人の工房に、見習いに来ていた日本人の若い女性、アキコが、数週間前から行方をくらましていることを知る。ペルッツィはアキコにはローマに好きな男がおり、彼女はその男のもとに走ったと言う。しかし、ガルナシアは、池の中の死体が彼女のものであることを直感する。
アキコの足取りをつかむために、ガルナシアは再びペルッツィを訪れ、アキコの死を告げ、彼女にまつわる話を聞こうとする。ペルッツィは最近心臓を病み、アキコを後継者にしようと考えていた矢先のことであった。しかし、ペルッツィは何故かガルナシアにつっけんどんな態度を取り、捜査にも非協力的になる。その他の街の人たちも、申し合わせたように、一斉に口をつぐんでしまう。ガルナシアは敵に回してはいけない人々を敵に回してしまったと感じる。ガルナシアが知り得たこと、それはアキコが、聡明な働き者で、少なくとも近所の人々には好かれていたことぐらいのものだった。
解剖の結果、アキコは妊娠していることが判明。彼女が、長身の男と一緒にいるところも目撃されていた。ガルナシアはアキコの死に男が関係していることを知る。アキコは東京の家を飛び出し、ペルッツィの工房で修行をしていた。彼女のアパートを訪れたガルナシアは、そこがかつて殺されたクレメンティーナという気のふれた女性が住んでいた部屋であると知り、感慨に浸る。部屋はすっかり改装されて、いかにも家賃の高そうな物件に変わっていた。しかし、見習い中のアキコが、どうしてそのような場所に部屋を借り、高額な家賃を払うことができたのであろうか。死体が高級な服を身に着けていたことも含めて、アキコに、スポンサーとしての男性がいたのではないかとガルナシアは疑う。
アキコのカバンが発見される。その中には写真が入っていた。その写真に間違いなく恋人として写っていたのは、ガルナシアの部下、エスポジトであった。そのエスポジトは、故郷の母の見舞いに行くと行ったまま行方不明になっている。アキコが付き合っていた男とはエスポジトであったのだ。街の住人も、それを知っていたので、ガルナシアも前では、口をつぐんだのであった。ガルナシアは、アキコ殺しの犯人が、自分の部下ではないかと思い悩む。
<感想など>
上に書いた本来のストーリーとは別に、二つのエピソードが平行して進む。ひとつは定年退職した元警察官のナルディと彼をめぐる二人の女性、モニカとコンスタンツァに関するもの。もうひとつは、ガルナシアの下の息子トトをめぐるものである。
退職し、老境に入っているナルディであるが、未だに若い頃の愛人と妻の三角関係を引きずっている。そして、二人の女性は、年甲斐なく往来で喧嘩をし、妻が愛人を傷害罪で警察に告訴している。
息子のトトは、急にヴェジタリアンになり、食卓で肉を食べるのは野蛮だと言いだす。ガルナシアが妻のテレサに話を聞くと、トトには最近好きな女の子が出来て、その娘が菜食主義の家庭に育っているらしい。
何故このふたつのエピソードが挿入されているのかを考えてみると面白い。ガルナシアはこれまで、自分の子供ほどの歳の若い部下と一緒に仕事をし、その部下の無能さ、非常識さを嘆くことが多かった。しかし、エスポジトは、そんな中では、例外的に極めて優秀な人材であった。しかし、そのエスポジトが、殺人の容疑者になってしまう。
「もし、本当にエスポジトが殺人犯だったら。」
市民との良い関係の上で仕事をしているガルナシアにとっては、不祥事による、警察の権威の失墜、それから来る市民の非協力が何よりも怖いのである。
そこにナルディのエピソードとの接点が見つけ出される。いかに定年退職したとは言え、元警察官が三角関係から傷害事件を引き起こしたというのでは、警察の面目がつぶれになってしまう。ガルナシアは部下のロレンツォーニに、とにかく、事件を穏便に済ませて、訴えを取り下げさせるようにと指示し、ロレンツォーニにも、そのために苦心惨憺する。
もうひとつの息子、トトのエピソード。これもエスポジトとアキコの恋と、そのふたりの背景と対応しているようだ。エスポジトとアキコはお互いに好き合っているが、エスポジトが自分の故郷へアキコを連れて行き、母親や親戚に彼女を引き合わせた日から、アキコの心の中に翳りが出来始める。国際結婚においては、いくら本人同士が好き合っていても、彼らが乗り越えなければならない、文化的な、家庭的、社会的な背景がある。息子トトが好きになった、デンマーク人のヴェジタリアンの女の子も、全く異質な文化を背負った娘である。それを、本人同士の力で克服していくかが、大切であることを、エスポジトとアキコ、それとトトのエピソードは考えさせる。
一応三人称で書かれているが、全てがガルナシアの視点から語られている。「視点」と言うよりは、彼の「思考」がそのまま書き連ねられていると言ってもよい。従って、いたるところに過去の記憶がよみがえり、また時間も行きつ戻りつで、結構読みにくい。
ガルナシアが駆け出しの警官の頃、勤務時間中に人妻とことに及ぼうとしているところで、夫が帰ってきて、鶏、ガチョウを蹴散らしながら逃げたエピソード、母親のハンドバッグの思い出、父親の思い出等が、回想シーンとして挿入される。それにより、これまで余り語られなかったガルナシアの色々な過去が、明らかになるのが面白い。
フィレンツェ人の閉鎖性、特殊性は、「異星人」に例えられると言う。ガルナシアの上司のカピターノ(大尉)は、滅多に冗談を言わない人だが、フィレンツェ人について次のようにコメントする。
「この世の中は、五つの要素から成り立っている:土、空気、火、水、そしてフィレンツェ人だ。」(15ページ)
まあ、フィレンツェの人が、シチリアで働くようになれば、シチリア人が「異星人」として目に映るということになると思うのだが。ともかく、「異星人」の中で生きていくには、「忍耐」しかない。まさに、そう言った意味で、ガルナシアは「忍耐の権化」と言うことができると思う。
警察署に改装工事がなされ、ガルナシアたちは、騒音と、埃と、無粋な作業員の中で仕事をしなければいけない。やっと完成したところで、ガルナシアを愕然とさせてものがあった。何と、シャワー室のタイルが、ピンク色なのである。「一番安上がりの材料で」と指示したところが裏目に出てこの結果。一番笑ったエピソードであった。
死んだのは日本人女性。「文化の違い」ということで全てが片付けられてしまいそうなところ、その中にある「どこか不自然なところ」に注目たガルナシアの頭脳の勝利と言うところか。
(2006年11月)