幻の滝を求めて
観光ガイドブックを詳細に検討している妻によると、山の中に、「リコの滝」という名の見ごたえのある滝があるらしい。十月二十四日火曜日、私たちはその滝を見に行くことにした。その日も、朝から時々雨の混じる天気であった。例によって朝食後、スミレの宿題の時間があり、十一時半にホテルを出発。その日は、高速道路に乗ってから西に向かう。
高い山が東西に連なっているマデイラであるが、何故かちょうど真ん中あたりがV字型に切れ込んでいる。ロールケーキを皿に横向けに乗せ、半分に切ろうと真ん中に包丁を入れたものの、半分まで切って途中でやめた、そんな形なのである。しかし、その真ん中の切れ込みのおかげで、島の人たちはどれだけ助かっていることか。島の北と南をつなぐトンネルは、現在三千八百メートルである。これでも結構道路のトンネルとしては長いが、もし「切れ込み」がなかったら、十キロにも及ぶ、長大なトンネルを掘らなくてはならなかったであろう。
その真ん中の切れ込み、険しいV字谷の底に車を進めるが、そのまま島の北側に通じるトンネルに入らずに、旧道、山道に入る。車のギアをセカンドに、時にはローに入れながら、二十分ほど坂を登ると、エンクメアダ峠に着く。標高千七メートル。風と雲が頭のすぐ上を通り過ぎて行く。風下にあたる島の北側には青空と青い海が見えた。
峠から稜線沿いに西へ向かう。更に標高が上がり、車は完全に雲の中に突入。道路に時々落石が転がっているので、注意して運転しなくてはいけない。山道をしばらく行くと、急に平らな場所に出た。険しい島であるが、山の上は平らなのである。辺りに木はなく、草や低木しか生えていない。平らな場所で道が真っ直ぐになるが、周囲の視界は閉ざされたまま。一瞬少し雲が切れると、日光が差す。湖が見えた。
間もなく、滝へ降りる遊歩道の入り口、ラバサルという場所に着いた。辺りは完全に雲の中。視界五メートル。強風が南から北へと吹き渡っている。駐車場に車を停め、外に出てみるが、寒い。スミレは余りの寒さに車から外に出るのを躊躇している。妻は二キロほど離れた滝まで歩きたそうだが、この視界とこの天気、そしてこの装備。もし道に迷ったら、それこそ命に関わる。私は一家の主として、今日は滝へは行かないぞと宣言した。まだ一週間滞在期間があるし、ホテルから車で一時間余の場所であるので、天候が回復すればまた来ればよいと妻に言う。
私たちは滝を諦め、島の北側に向かった。途中、霧の中から突然現れる放牧中の牛にぶつかりそうになりながら、島の最北端ポルト・モニッツに到着。一時間足らずで、標高差千三百メートルを下ったことになる。海岸は山の上の天気が嘘のように晴れていた。海岸沿いのベンチに寝そべって、太陽を浴びていると、身体がホコホコと温まってくる。空を見ると、雲が山を越えたとたん急速に消えていくのが見えた。
私たちは滞在中に、その後二度、「リコの滝」を見に出かけた。しかし、二度ともエンクメアダ峠で雲に包まれてしまった。結局、「リコの滝」は私たちとって、幻の滝に終わった。