英国のアザミは食べられるか
月曜日の午後、京都駅から十四時十分発、特急「サンダーバード」に乗る。例によってグリーン車だ。同じ車両の乗客には中年の女性が多い。それも和服姿。旅館の女将さんという人種なのだろうか。先にも書いたが、グリーン車に汚い格好で乗るのは、余り居心地の良いものではない。しかしながら、僕が汚い格好をしているのには理由がある。(「汚い」と言っても「不潔」ではなく、「みすぼらしい」ということなので、念のため。)Tシャツ、靴下、パンツは、帰りの荷物を少なくするために、わざと着古したボロボロのやつを持ってきているのだ。帰りがけに全部捨てていくつもり。おそらく、僕が帰った後、Tシャツは細かく切られて、母が窓拭きや台所磨きに使うことになるのだろう。
金沢駅には義父が迎えに着てくれていた。車の中で、祖母の容態について聞く。祖母は九十三歳、数年前から寝たきりだ。「もうあかん」という危機に何度か直面しながら、それを乗り越え、いまだ存命。
祖母は数週間前、病院から家に戻ってきていた。祖母が病院から妻の実家に戻ったことを聞いたとき、正直言って、金沢へ行くことをためらった。二十四時間祖母の世話をしている義母に、僕が行くことにより、新たな負担をかけたくなかったからだ。義母の
「自分も、気分転換になるからおいで。」
と言う言葉を真に受けてやって来た。義父の話を聞くと、祖母は最近少し回復の兆しがあるようだ。
妻の実家に到着する。祖母は居間でエアマットの上で寝ていた。手を握ると握り返してくるし、翌朝、大声で「おはよう」と言うと、祖母は「おはよう」と答えた。翌日は暑い日だったが、祖母は足で掛け布団をはねのけている。思っていたより、元気そうだ。
祖母の寝ている一メートル横に、新しい電子ピアノが置いてある。弾いてみたい。
「これ弾いていいんですか。でも、おばあちゃん、うるさいでしょうね。」
僕が聞くと、
「大丈夫、大丈夫。どうせ、ばあちゃんのことは耳が遠いから聞こえやせん。」
義父は答えた。僕は控えめな音量でピアノを弾き始めた。
夕方、義理の妹が来て、タケノコ料理一式を持ってきてくれた。若竹煮、タケノコの刺身、タケノコのテンプラ、タケノコの漬物、タケノコご飯、エトセトラ。妹の婚家は、金沢から山ひとつ向こうの別所という部落。そこはタケノコで有名で、シーズンにはタケノコ料理を出す家が多い。妹の嫁ぎ先も、タケノコ農家だ。
妹の持って来てくれた料理を、義父母と食べる。タケノコだけではなく、山菜のテンプラがあった。アザミの葉の天ぷら、ムッチリとした食感で、なかなかいける。アザミならば、英国にもいっぱい生えている。(スコットランドの国花であるくらいだから。)ひょっとしたら、この味、ロンドンでも味わえるかも知れないぞ、そんな期待が広がる。
しかし、英国に帰って、犬の散歩の途中、アザミの葉を二、三枚むしってみたが、英国のアザミには棘があるのだ。チクチクしてとても食べられそうになかった。
妹の婚家を訪れる
翌朝、目が覚めたときは、もう九時を回っていた。階下に降り、居間に入る。寝ている祖母の横で、テレビの衛星放送が、「ヤンキーズ対レッドソックス」の試合をやっていた。義母の用意してくれた朝食を食べる。
天気は最高。気温は二十五度くらいか。天気に誘われて、散歩に出かけることにした。散歩するのにも、目的地があった方が良い。僕は、妹の婚家まで行くことにした。心臓の病気をする前は、妻の実家から山ひとつ向こうの妹の婚家まで、二十八分で走破したという「実績」がある。片道五キロ程度。歩けない距離ではない。
「別所まで歩いてきます。」
義父母に告げる。義父は、僕の今の体調を気遣い、携帯を貸してくれた。
「途中で歩くのが辛くなったら、いつでも遠慮なく電話してや。車で迎えに行くから。気ィつけて行くまっし。」
義父はそう言った。有難いお言葉。読んだら飛んで来てくれる「サンダーバード、国際救助隊」が後盾についているようなものだ。
最近は心臓の調子もかなり良くなり、平地なら、ほぼどこまでも歩ける。しかし、まだ坂道、階段には弱い。昨年、マデイラ島でトレッキングをしたときも、坂道でへたばってしまい、娘に手を引いてもらい何とか帰りついた。
ペットボトルに冷たいお茶を詰めてもらって出発。歩き出すと、涼しいロンドンから来た身には暑さがこたえる。しばらくして、大乗寺山の登りにさしかかる。一キロほどの上り坂。大学の陸上部の時、この道でよく「坂道トレーニング」をやったものだ。途中「星山石材」の建物があり、そこから山の頂上までが特にきつい。何度か途中で休み、冷たい茶を飲む。義父に電話しようかなとも思う。しかし、思い直してまた歩き出す。峠に着き、道は下り坂になった。八幡神社の木陰で、涼しい風に吹かれて、気分が少し良くなった。
道端に「クマに注意」の看板が立っている。この辺り、秋にはよく熊がでるそうだ。さすがに今の季節は大丈夫だろう。
しばらくすると、分かれ道に来た。妹の家に行くにはどっちの道だったか、思い出せない。農作業のおばさんに道を聞く。
「別所へ行くのはどっちですか。」
「そこの電話ボックスを右に曲がって、真っ直ぐ言って、ぶつかったら右、そしたら別所や。」
「ぶつかったら痛いやん。ぶつかる前に曲がなあかんのと違う?」と屁理屈をこねたいが、やめておく。
おばさんに言われた通りに行くと、道路の終わりの三叉路に、「高野さんのタケノコ直売所」があった。タケノコの季節になると、妹の婚家のお母さんが、そこでタケノコやタケノコご飯を売っているプレハブの建物だ。ともかくそれに「ぶつかる」前に右へ曲がり、無事、十二時過ぎに高野家に到着した。
昼食のために農作業から帰っておられたお父さんと、お母さんに挨拶をする。突然のロンドンからの訪問で、向こうも面食らっておられる。歩いて来たと言うと、感心された。僕はこの家では、幾つになっても「ロンドンのあんちゃん」と呼ばれている。
妹が奥から出て来た。ちょうどタケノコの季節が終わり、後片付けをしていたとのこと。大きな家の、涼しい座敷で、妹と三十分ほど話をする。その間に完全に元気を回復。帰りも歩くぞという気になった。
驚いたことに、昨年三叉路の「タケノコ直売所」に車が飛び込んだことがあるという。幸いお母さんは中におられなくて、誰も怪我人はなかったそうだ。本当に「ぶつかった」人がいるんだと、自分でも感心した。
帰り道、妹の家の前に咲いていた花を写真に撮る。アヤメに似た白い花で、花弁に黄色と紫の細い線が入っている。妹も名前を知らないと言う。京都に戻ったとき、俳句をやっていて、花の名前に詳しい母に写真を見せた。果たして、母はその名前を知っていた。「シャガ」という名前だった。
プールの帰り道
翌朝も暖かかった。と言うより、英国人の感覚から言うと「暑い」気候だ。(英国人は気温が二十五度近くなると「ホット」と言い出す。)夕べは、妹と彼女の旦那(義理の妹の夫だからやっぱり「義理の弟」?)そして甥っ子たちと焼肉を食べに出かけた。暖かい気温のせいか、日中長く歩いたせいか、ビールが上手かった。今朝は、二日酔いか、時差ぼけの延長か、頭が少し重い。
今日は、祖母を、風呂に入れるために病院に連れて行く日。叔母が車で迎えに来た。玄関先まで布団をずらして行き、そこからタオルケットで包むようにして祖母を車の後部座席に乗せるのだが、骨と皮ばかりになった祖母でも、持ち上げると重い。時々、戯れで娘たちを抱っこしているが、抱っこされている人間がこちらにぶらさがろうとするから、何とか持ち上げられるのである。ぶらさがる意思のない人を持ち上げるのは大変なことなのだ。「こつ」があるのだろうが、病院の看護婦さんの苦労が偲ばれる。
午前中は、また、義父と、また衛星放送の「ヤンキーズ対レッドソックス」の「因縁の対決」を見てしまった。松井のファンの義父は、ヤンキーズの試合は欠かさず見ているようで、大リーグの選手についても結構詳しい。解説者が隣にいるようなものだ。
十二時から、近くの市営プールが開くので、泳ぎに出かけた。室内プールで時々休みながら千五百メートルほど泳ぐ。何故か僕の心臓は治療後、走ることには耐えられないが、泳ぐことはできるのだ。平日の午後の早い時間、プールには五、六人の人しかいない。一コースを独占して泳げるのは良い気分。
泳ぎ終わって更衣室で、一緒に着替えているおじさんと話す。暖かい日なのに、彼はズボンの下に何と「ぱっち」を履いている。
「毎日来られてるんですか。」
と尋ねると、
「定年になってから暇なので毎日来てる。」
とのこと。その後、彼は
「あんたも定年か。」
と僕に聞いた。あのね、ちょっとは相手を見て質問をしてほしい。まあ、早く定年になりたいのはやまやまなのだが。あと十年の辛抱。
しかし、このとぼけた親爺さんが良いティップをくれた。
「プールの横の薔薇園が見ごろだから、あんた、見ていきまっし。」
プールから出て、言われた方向へ行くと、薔薇園があった。おりしも、赤や黄色やピンクの薔薇が満開。薔薇園の真ん中のベンチに寝転ぶと、甘い薔薇の香りと、平和な家族連れの会話が心を癒す。僕はしばらく、ベンチに横になっていた。
薔薇園からの帰り道。僕は小学生の頃を思い出した。運動は苦手だったが、プールが好きだった僕は、夏休み、ほとんど毎日学校のプールに出かけた。そう言えば、プールで泳いだ後、夏の日の昼下がり、こうしてブラブラ歩いて家に帰ったっけ。日本にいると、思わぬきっかけから、忘れかけていた過去が蘇るので面白い。