シェークスピアの故郷で学んだこと

 

 ケニルワース城の向かいのパブで夕食を取りながら、ワタルとスミレは話し込んでいた。と言うより、スミレが大学生活について質問をして、ワタルがそれに答えるというパターンが多かった。大学のミュージックセンターを息子が案内してくれた。コンサートホールや、リハーサルのための場所や、楽器の練習施設などがあった。そのミュージックセンターの入り口の掲示板に、劇団、オーケストラや、ブラスバンド等の各種バンド、その他、いろいろなグループの紹介と勧誘が貼ってあった。音楽好きで、学校のオーケストラでフルートを弾き、週末はミュージカル学校にも通うスミレはそれを順番に見ていた。

「どれに入ろうかな。」

と呟きながら。スミレはまだ十五歳。

「あのね、スミレちゃん、先ずは三年間一生懸命勉強して、この大学に入らないといけないんだけど。」

 夕食の後、息子を学内の寮まで送って行き、十時前にスミレと私は、例の白黒で統一された超モダンな部屋に戻った。ふたりとも疲れていたので、直ぐにダブルベッドのツキノワグマの皮の下に潜り込み、寝入ってしまった。

 翌朝、スミレと私は、シェークスピアの生誕地である、ストラトフォード・アポン・エイヴォンに向かった。ケニルワースからは車で二十分くらい。一緒に来ないかと、ワタルの携帯に電話を入れたが、彼は寝ているのか、電話を取らなかった。前夜は雨も降っていたが、朝になって雲が切れ始め、時々太陽が顔を出していた。

 十時前にストラトフォードに着き、車を停め、「シェークスピアの産まれた家」へ言ってみる。説明によると、ウィリアム・シェークスピアの父、手袋職人のジョン・シェークスピアが、当時、ゴミを家の前に不法投棄をして、罰金を支払ったという記録が、当時の町の公文書に残っている。それをもって、ウィリアムが産まれた当時、その家にシェークスピア一家が住んでいたことを特定できたのだと言う。お父さんとしてみれば、罰金を払ったことがまさに「怪我の功名」となり、後年の学者に恩恵をもたらしたということになる。

 「シェークスピアの産まれた家」を出たあと、スミレと私は、エイヴォン川の畔をしばらく散歩し、古い家並を見ながら街を一周した。なかなか「絵になる」場面が多く、絵心を誘われる街である。街のあちこちに植えられている花が美しい。昼前に、イタリアレストランに入り、そこでパスタを食べる。その後、宿題の終わっていないスミレのために、早めにロンドンへ向かった。車の中、スミレに、ストラトフォードでシェークスピアについて何を学んだかと尋ねてみた。

「シェークスピアのお父さんが手袋職人で、ゴミを変な所に捨てて、捕まったこと。」

彼女は言った。

 十五歳の娘とのふたり旅は予想以上に面白かった。私は、二日間で、心の疲れが癒されたような気がした。そして、翌日から、何か新しい生活が始まるような気がした。(了)

 

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