細見美術館
福岡から帰りの新幹線の中で、私は義兄が言った言葉を考えていた。義兄の勤める「たのしか荘」は確かに良い施設である。しかし、ひとりの老人が一週間ずっと「たのしか荘」で過ごすことは難しいのである。何故ならば、「たのしか荘」に来ることのできるのは「要介護・レベル三」の老人である。そのレベルであると、一ヶ月に介護保険から使える金額は二十万円。「たのしか荘」の一日の利用料金は一万五千円であるので、一ヶ月に十三回の利用が限度となる。つまり、それ以外の日は、家族が昼間面倒を見ることになる。もし、限度以上に施設を利用しようと思えば、一日一万五千円の費用を自腹で払わなくてはならない。その負担は家族にとって、経済的にかなりきついものであろう。
基本的に、健康保険にしても介護保険にしても、日本のシステムは、国も金は出すが、家族や本人もそれなりに負担してくださいという前提で成り立っている。国と個人、両方の協力があって、初めて成り立つ制度である。その辺りが、ヨーロッパの社会保障制度とはかなり違う。ヨーロッパでは基本的に、老人が家族と一緒に住むことや、家族が面倒を見ることを、前提としていない制度なのである。
福岡から京都に帰った夜、私はゲンシ君に電話をした。失業中の彼なら、昼間、私と遊んでくれるかも知れないと期待して。果たして、話はすぐにまとまり、翌日、高校の同級生のユカさんが勤める、岡崎の細見美術館へ行くことになった。彼によると、ユカさんはその美術館の「偉いさん」であり、多分只で見学できるという。ゲンシ君が、ユカさんに、その日の夜メールを入れておいてくれることになった。美術館が十時に開館するので、ゲンシ君とは、彼の家の近くの荒神橋で、九時半に落ち合うことにした。
翌朝、父母と一緒の朝食の後、九時前に私は家を出た。雨上がりの天気の良い朝であった。私は鞍馬口通りを東へ向かって歩く。鴨川と突き当たると、川沿いの遊歩道を南へ向かった。川の流れと、それにキラキラ反射する太陽を横目に見ながら、砂地の道をサクサク歩くのは気持ちが良い。荒神橋でゲンシ君と落ち合い、二条まで鴨川添いに歩き、二条通を東へ、岡崎の細見美術館に着いたのはちょうど会館時間の十時であった。
ゲンシ君が受付のお姉ちゃんに、
「ユカさん、いてはりまっか。」
と尋ねる。お姉ちゃんは事務所に電話を架けてくれたが、ユカさんは不在のようであった。
「お名刺を頂戴できますか。」
と受付嬢に言われたので、失業中で名刺のないゲンシ君に代わり、私が名刺を出し、
「ケベとゲンシです。お訪ねしましがご不在で残念です。」
と伝言を書き、彼女に渡す。
それから、ゲンシ君とふたりで美術館を見学した。受付嬢は我々からお金を取らなかった。その日の展示品は、中国の古墳の副葬品。当時の日常生活のミニチュアが、陶磁器に焼かれて埋められたという。ゲンシ君と私は、立体的な構造の館内を見て回った。