虹彩登録

 

 四月八日土曜日、朝七時、妻の運転でロンドン・ヒースロー空港へ向かう。妻の運転する車の助手席に乗ると、いつも彼女の運転にケチをつけてしまい、彼女は不機嫌になり、私は「自分で運転する方が楽だ」と思ってしまう。その朝も同じ。

「あなたのように度々国外に出る人は、目の『虹彩』を登録しておくと便利ですよ。再入国のとき、画面を覗き込むだけで、自動的に本人であることが認識され、入国審査の列に並ばなくても良いし、パスポートにもスタンプを押されません。」

と出国審査の際、係官に言われた。海外出張の多い私のパスポート、上から上から押される入出国のスタンプでどのページも真っ黒。パスポートの増補で急場を凌いだが、何とかしなければと思っていた。また、夜疲れて空港に着いたとき、外国人用入国審査の長い列に並ぶのは腹立たしい。一緒に中近東やアフリカからの飛行機が着いたりしていると最悪。ひとりひとりの入国審査に延々と時間がかかり、列はさっぱり進まない。その両問題を同時に解決できるのは「グッド・ニュース」である。しかし、「虹彩」で本人を認識できると言うことは、それが指紋のように唯一無二な物であるからであろう。そんな大切な情報を、政府機関に与えてしまうのはちょっと抵抗がある。しかし、便利さには負けた。出発までに十分な時間があったので、その手続きをした。コンピューターに接続された鏡を覗き込むだけでおしまい。横で係員が私のパスポートの情報を入力している。

 結果的にはこれは正解。二週間後、夜九時。ロンドン・ヒースロー空港に戻ってきたとき、延々と続く入国審査の列を横目に、私は「虹彩登録者専用出口」から、一分とかからないうちに外に出ることができたからだ。妻も私が到着後直ぐに出てきたので驚いていた。

 アリタリア航空二三七便は定時にヒースローを出発、ミラノ・マルペンサ空港に着く。二時間半の待ち時間。東京、大阪と相次いで日本行きの便が出るので、空港のロビーには日本人の団体客が多い。日本まで、その賑やかな人たちと同舟というわけである。

 大阪行きの搭乗口は、もう大阪である。関西弁が飛び交っている。

「うち、そこの免税店でこのスカーフ買うてん。なかなかええ柄やろ。いくらやと思う。七十五ユーロやったわ。七十五ユーロ言うたら、ええと、一万五千円かいな。高いがな。そんなアホことないわ。すんません。添乗員さん。七十五ユーロちゅうたら、いくらになりますの。」

そんな会話を聞きながら、私は本を読んで出発を待った。

マルペンサ空港には飛行機と建物を結ぶブリッジがない。バスに乗って、大阪行きの飛行機に向かう。タラップからボーイング七七七機のエンジンを間近に見る。何とでかいエンジン。小型機の胴体ほどある。飛行機の中では、一錠で効くはずの睡眠薬を二錠飲んで爆睡。目を覚ますと、十一時間の飛行時間の残りは後三時間になっていた。

 日曜日、午前十時半に、関西空港着。外に出ると、意外に寒かった。日本の四月ってこんなに寒かったかなと思いながら、私は特急「はるか」で京都へ向かった。

 

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