「ヴェロニカは死ぬことにした」

原題:Veronika Decide Morrer

ドイツ語題:Veronika beschleßt zu sterben

1998

<はじめに>

 

スロヴェニアの精神病院を舞台にした物語。「ところで『スロヴェニア』ってどこにあるの?」これに答えらえる人は、スロヴェニア以外では殆どいないと思う。まさにその問いかけから、物語は始まる。

 

 

<ストーリー>

 

一九九七年十一月十一日、スロヴェニアの首都、リュブリャナの修道院の一室で、二十四歳のヴェロニカは大量の睡眠薬を飲み下した。意識を失うまでの時間、彼女は傍にあった雑誌を手に取る。そこには、パオロ・コエーリョの開発した新しいコンピューターゲームに記事が載っていた。そのゲームはスロヴェニアで開発され、スロヴェニアの古城で発表会があったという。しかし記者は書く。

「スロヴェニアがどこにあるのか誰も知らない。」

それに憤りを覚えたヴェロニカは、

「スロヴェニアはここにある。」

という手紙を雑誌社に対して書く。それを、彼女の遺書にするつもりで。

 彼女が自殺を決意した理由はふたつあった。ひとつはこのまま歳を取って、みじめな生活を送りたくないこと。もうひとつは、世の中に色々なことが起こっているのに、自分はそれに対して何もできないということであった。

 ヴェロニカは結局死にきれなかった。彼女が目を覚ますとヴィレテ精神病院に収容されていた。彼女は主治医のイゴー医師から、自殺を図った際、心臓がダメージを受けたため、あと数日の命であると宣告される。

 ヴィレテ精神病院には、様々な人々が収容されていた。ヴェロニカが最初に話をしたのは、ツェドゥカという名の三十代の女性であった。ツェドゥカは、若い頃に出会った男が忘れられなくて、一度その男を追って米国に渡った。しかし、その男から捨てられた彼女は、スロヴェニアに戻り、結婚し、夫と子供たちと共に幸せな家庭生活を送ることになる。折しも、ユーゴスラヴィアの分割が始まり、セルヴィア出身であったツェドゥカもそれに巻き込まれる。そんな時、彼女はスロヴェニア国民的詩人、プレセレンが恋人に書き送った詩を読む。そして、その詩により、昔の恋人の記憶が呼び起される。彼女はその男と何とか連絡を取ろうとするが、行方が分からない。それが原因でうつ病になったツェドゥカは病院に収容される。彼女はインシュリンショック療法を受けていた。一見残忍な療法であるが、彼女はそれを内心期待していた。インシュリンショック療法で彼女が「気を失っている」間、実は彼女の魂は、肉体から遊離し、世界中を飛び回ることができたのだ。

 ヴェロニカは再び自殺を企てるために、外部との接触がある「兄弟団」のメンバーに近付こうとする。その中心人物がマリであった。マリは元弁護士。何度もパニックアタックに襲われ、病院に来る。治ったので元の生活に戻ろうとするが、世間体を気にする夫からは離婚され、弁護士事務所からは解雇を言い渡される。彼女は病院の中に留まることを決意する。そして、そのような患者と共に「兄弟団」を結成し、その中心人物となっていた。

 ヴェロニカは夜中にピアノを弾き始める。彼女は、子供の頃ピアニストになるという夢を持っていたが、母親の説得で大学に入り、図書館の司書として働いていた。彼女のピアノのただ一人の「聞き手」がエドゥアルドという青年であった。エドゥアルドは外交官の息子。ティーンエージャーのとき父の赴任でブラジルのブラジリアに住んだ。自転車で事故を起こし入院中に、看護師から借りた一冊の本に出合う。それは、ごく普通の人間がある日「パラダイス」に目覚め、その実現に向かってきた歴史を書いた本であった。彼も自分の思い描く「パラダイス」を人に伝えたいと思う。彼は退院後、絵を習い始める。しかし、彼は息子を外交官にしたいという期待と、自分の夢を実現したいという気持ちの狭間で、次第に現実から逃避していく。彼は外部との接触を断ち、Schizophrenie「統合失調症」と診断され、スロヴェニアに送還され、病院に収容される。

 ヴェロニカは何度か心臓発作に襲われる。そして、自分の中に、エドゥアルドに対する愛と、数日後に迫った「死」を前にして、「生きよう」という気持ちが生まれたことを感じる。ツェドゥカとマリは最初憐れみを持ってヴェロニカに接していた。しかし、ヴェロニカの変化に気づき、自分たちも触発される。

 ある日の夕食の席、四人の患者が来なかった。それはヴェロニカ、エドゥアルド、ツェドゥカ、マリの四人であった・・・

 

 

 

<感想など>

 

 この物語における、読者に対する最大の「問いかけ」は、「気が狂っている」、「精神異常」とは何かということだろう。「気が狂っている」ということに対する定義への疑問をコエーリョは投げかける。ツェドゥカは、ヴェロニカに次のような逸話を語る、国王と民衆と人を狂わせる井戸水の話である。

「魔法使いがある国を破滅に追い込もうと、国民が使っている井戸に『気の狂う』薬を入れた。全ての国民が発狂し、国の統制が取れなくなった。国王だけは、自分の井戸を持っていたので気が狂わなかった。国王は警察や軍隊を使って、国民をコントロールしようとするが、警官や兵士も発狂しているので、何もできない。国民に退位を迫られた国王は、自分も国民の井戸からの水を飲み発狂することにする。国王がクレージーな法令を連発し始めて間もなく、国に平穏が戻った。」

つまり、「正常」、「異常」の基準は絶対的なものでなく、大多数の人間が信じていることが「正常」とされ、それに反する少数派は「異常」として扱われるということである。この物語は「異常」、「クレージー」とは何かということを問いかけている。

精神病院というと、多くの人が暗いイメージを持つが、中は結構居心地の良い世界なのかも知れない。「気の狂っている」人々は、先にも述べたように、社会の大多数の人々と行動パターン、考えを異にしている人々である。「何を言っても、何をやっても(どうせ気狂いの戯言だと)許される世界」は彼らにとって、居心地のいい場所と言わざるを得ない。つまり、患者は、「他人に良く思われたい」「他人と同じに扱われたい」ための余分なエネルギーを使わなくてもすむからだ。だからこそ、マリと、「兄弟団」の仲間は、病気が治ってからも病院の中に留まっている。

愛情と憎悪についても考えさせられる。特に、親が子供に注ぐ愛情について。エドゥアルドの両親も、ヴェロニカの母親も、彼らなりに子供の幸せを祈って、エドゥアルドを外交官にしようとし、ヴェロニカをピアニストではなく「固い職業」につかせようとした。子供の行く末を案じた親は、物質的にも感情的にも、「愛情」を子供の上に注いだ。しかし、結果的にそれは子供を潰してしまった。何故だろうか。それは「愛情」と同時に「親の価値観」を子供に押し付けようとしたからだと思う。幸せになる道、生きていく道は何本もあるのだから、無理矢理親の敷いたレールの上を進ませることは、子供たちにとってマイナスにしかならない。特に感受性の強い子供は、親の期待と自分の希望の狭間で潰れてしまうことになる。

スロヴェニアのリュブリャナが舞台になっている。最初に書いたように、スロヴェニアがどこにあるのか誰も知らない。私も知らなかった。この物語を理解するには、旧ユーゴスラヴィアの政治的な背景を知ることが必要だ。ユーゴスラヴィアは第二次世界大戦後、リーダー・チトーの下に独立を達成した。しかし、それは多様な民族、宗教を持った人々の集合体であり、チトー大統領のカリスマ性と民族融和政策により何とか統一が保たれているという状態であった。しかし、チトーの死後、ソヴィエト連邦の崩壊とともに東側の国々にも民主化の波が押し寄せてきた。ユーゴスラヴィアでも、一九九〇年から、民族の独立運動が始まる。一九九〇年、セルヴィアのスロボダン・ミロシェビッチによるコソボ併合に端を発したコソボ紛争で、ユーゴスラヴィアは内戦状態に陥る。一九九一年にはスロヴェニアが十日戦争の後独立、その後マケドニア、クロアチアが戦争の末に独立を果たしていく。登場人物は、皆そんな政治的、社会的な波に流されている。

コエーリョ自身が登場する。ヴェロニカが自殺を図った三か月後、パリのレストランで、ヴィレテ病院に勤める同じくヴェロニカという名前の女性から、一部始終を聞くという形で。その後、彼は全く登場しない。何のために彼は、自分自身を物語に登場させたのであろうか。この答えは最後まで見つからなかった。

ベストセラーになったと言うが、それなりに、考えさせられる事の多い本であった。

 

20136月)

 

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