第三章 闇を走る

 

 

 ドイツの秋は美しい。木々が黄色く染まり、時々現れる青空に映える。しかし天気は変わりやすく、雨が多くなってくる。秋が深まるにつれ、困ったことが起こり始めた。ディーターと走った後も、二日に一度、朝出勤前に森の中を走っていたが、夜明けがだんだん遅くなり、走り始める時刻に辺りが暗くなり始めたのである。十月に入って、朝六時半でもまだ薄暗く、それでも無理をして走っていたが、木の根に躓くは、ウサギの穴に足を取られるはで散々だった。十月の中旬には朝起きても完全に真っ暗で、とても外を走れる状態ではなくなってしまった。夕方も然り。時々仕事が早く片付いて、六時過ぎに会社を出ても、あたりはもうとっぷりと暮れている。そして時として冷たい雨や霰が降ってくる。暗いのと天気は悪いのを口実に、練習は週末だけになってしまった。

 

 十一月になり、ある日曜日、近くの町で今度は一人でレースに出た。ディーターは都合がつかず参加しなかった。久しぶりに天気の良い日であった。

ゆっくりスタートして、後半になって、疲れの出た他のランナーをひとりふたりと追い抜いていく。基本的に走ることは、結構メンタルなスポーツだと思う。自分が疲れていても他人を追い抜くと元気が出る。その反対に他人に追い抜かれると、自分のスタミナを他人に吸い取られるような気がする。その日も後半他のランナーの疲れがでる頃、追い抜けるような展開をねらっていたわけである。先行する人たちを追い抜きながら、背中に「W市フォルクスヴァルト走ろう会」と書いたランニングシャツを着ているランナーがたくさん走っているのに気が付いた。「フォルクスヴァルト」はドイツ語で「市民の森」と言う意味、僕がいつも走っている森の名前である。

「へーえ、あんなところに走ろう会があるんだ。」

興味を覚えた僕は、次に「フォルクスヴァルト」のシャツに追い抜いたとき、そのシャツを着た僕より十歳くらいは年上の女性に走りながら尋ねた。

「あのー、すみません。『フォルクスヴァルト走ろう会』っていつ練習してるんですか。」

女性は少し荒い呼吸の中から、

「月曜日と水曜日の午後六時よ。」

と答えた。

「どこを走ってるんですか」

僕は更に聞いた。

「動物園の横の坂道を上る途中、左側に幼稚園があるの、あなた知ってる。あそこに集まってそれから森の中を走るのよ。」

彼女はそれだけ言うとしばらく呼吸を整えている。走りながら話をするのは大変なのである。動物園の横の坂道は、僕がいつも通勤の時に使う道で、その道の一番奥に僕のアパートがある。そう言えば、坂の途中、左側にブランコと滑り台と小さなジャングルジムが見える。僕は場所の見当がついた。

「大体どこかは分かります。僕も一度練習に参加していいですか。」

と聞くと、

「ええもちろんよ。あなた、結構若くて見込みがありそうね。でも、どんな人でも来ていいのよ。」

と彼女は答える。そして、またしばらくハアハアやっている。

「月曜日と水曜日ですね。じゃあ、今度行きます。どうも有り難う。先に行くから頑張ってください。」

そう言うと、僕はギアを一段上げて彼女から離れた。

「六時きっちりから走り始めるから、遅れないように、少し前に来なさいね。」

後ろから、彼女の声が聞こえた。僕は振り返ると、片手を上げて「分かった」と合図をして先を急いだ。

 

その後、しばらく仕事が忙しくて、僕は夕方走ることができなかった。十二月の最初の水曜日、クリスマスも近づき仕事にも少し余裕ができてきた。六時からの「走ろう会」に行ってみようと思いたち、五時過ぎに会社を出た。朝から雨交じりの強風が吹き荒れ、ひょっとしたら今日の練習は中止ではなかろうかとも思ったが、ひとまず行くだけは行ってみようと思った。アパートまでは車で十五分。アパートでランニング用のタイツと、ウィンドウブレーカーに急いで着替えてまた車に乗り、坂の途中の幼稚園の前に車を停めたのが六時五分前だった。

幼稚園の玄関先に、荒天にもかかわらず集まったのはおよそ四十人。暗い中に息が白く見える。コーチはラルフと言う六十歳くらいの男であった。彼に今日から一緒にやりたい旨を告げる。十キロ、八キロ、六キロの三つのコースに分かれてスタートすると言う。

「最初だからまず六キロにしなさい、途中ではぐれて帰って来られないといけないからね。」

とラルフに言われた。六キロは少し短すぎるとも思ったが、暗い森の中で置いてけぼりになり迷子になることだけは避けなくてはならなかった。七、八人の人たちの後に付いて走り出す。先頭は森の中に入って行く。十二月のドイツの午後六時、日は二時間前に暮れ、森の中はもちろん照明などなく真っ暗。漆黒の森の中に、ピチャピチャと水しぶき上げながら入って行く。手回しのいい二、三人が懐中電灯を持っていて、それを点灯する。その灯りだけが頼りである。森を一回りして帰ってくるまでの四十分間、暗闇を懐中電灯で照らしつつ、ぬかるみに足を取られ、何度も転びそうになりながら、泥だらけで走りまわった。我ながら「クレージー」な集団だと苦笑しながらも、私は非日常的な体験を密かに楽しんでいた。

 

翌週は八キロを走った。幸い雨は降っておらず、コンディションはまあまあだった。途中でスパートをかけたお兄ちゃんに付いて行って、最後先頭で走り終わった。幼稚園の玄関にたどり着くと、「はいっ。」と言う感じで、栓を抜いたビール瓶を手渡された。一口飲んでみると中身はビールだった。

「あの、どうしたんですか、これ。」

と渡してくれたおじさんに聞いてみる。

「今日はクリスマスパーティー。あっちにサンドイッチとか食べ物もあるから、食べてね。」とおじさんはごく普通の顔で答える。走り終わってまだ息も切れているうちにクリスマスパーティーに突入してしまうのだ。変なクラブである。

一緒に走ったお兄ちゃんはフレートと言う名前だった。ビールを片手に彼と少し話をする。彼は中学で数学と宗教を教えていると言う。何とも奇妙な取り合わせであると思った。彼は走るとき、炭鉱夫がつけるような懐中電灯をおでこにつけていた。

次々と森からランナーたちが帰ってくる。僕たちは零度近い気温の中、幼稚園の庭先で立ったまま冷たいビールでクリスマスを祝った。

 

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