和泉に出会ったこと

高校一年の三学期のある日、いつものように陸上の練習を終え、すっかり暗くなった中、数人と仲間と一緒に校門を出た。風の強い寒い日で、走った後の汗がどんどん引いていく時の寒さに震えながら、僕は電車に乗った。三条で電車から降りて改札を出ると、いつも乗るバスがちょうど停まっているのが見えた。ぐずぐずしていて、乗り遅れ、寒い中を二、三十分も待つのはまっぴらである。僕は、仲間と別れて、バス乗り場まで全力疾走した。

バスの前まで走って、初めてそのバスが、僕がいつも利用する五十九番ではなく、四十九番であることに気がついた。そのバス乗り場に、和泉が立っていた。僕が、全力疾走してきたのに、バスに乗らないので、和泉は不思議そうな顔をした。僕が訳を話すと笑い出した。ふたりで並んでバスを待っていると、いかにも田舎から出てきたばかりというおばさんが、僕らにバスの乗り場を尋ねてきた。飲み込みの悪いおばさんに、ふたりでああだこうだと教えているうちに、なんとなく打ち解けた雰囲気になっていた。

和泉とは同じクラブで一年近く一緒に活動してきたが、それまで、あまり話した記憶がない。また、家が同じバスの沿線にあり、それまで行き帰りのバスの中で顔を合わせてもよかったが、その記憶もなかった。クラブなどで和泉の様子を見ていると、愛敬のある子とは思ったが、相手が男でも女でも区別なく甘えているような印象を受け、そこに少し嫌悪を感じていた。

間もなく、今度は本当に僕らの乗るバスが来て、僕は和泉と並んで座った。僕は、その日、珍しく冗談が次々と口をつき、和泉も大笑いをした。和泉はお腹を抱えて笑い、僕の方に倒れて来そうな勢いだったので、僕もよけいに調子に乗って冗談を言い続けたのだろう。結局、僕は自分の降りる停留所を乗り越し、三つ先の和泉の家の側の停留所まで一緒に行った。家に帰って夕飯を食べている時も、僕は和泉との会話を思い出して独りでニコニコしていた。

それからも、月に二三度は、帰りのバスで和泉と一緒になることがあり、僕はそれをとても楽しみにしていた。電車を降りて、夕方のラッシュ時の人ごみのなかに、立っていると、側に大勢人がいるのに、「群集の中の孤独」というのか、寂寥感に包まれることがある。そのような時、和泉が人ごみの中から現れるのを、密かに期待した。しかし、和泉と一緒になるために、わざと自分の時間を合わせることはしなかった。

和泉は話していて愉快な子だった。彼女には、つきあっている男友達が決まっていると聞いていたし、僕も洋子のことを完全にあきらめきれてなかった。それだけに、和泉との会話は、なんとなく秘密めいていて面白かった。また、それまで、洋子との会話に常になんとなく不自然なものを感じていただけに、偶然から始まった、成り行きにまかせた和泉との会話は自然で、僕の心をなごませた。洋子に振られたことに対する、埋め合わせを求めていたというわけではない。和泉は僕の心の中の、全く違う場所を占めていた。僕は和泉に対しても、それなりに真剣だった。

バスに乗っている間という限られた時間であったが、和泉との会話の内容も徐々に将来のことなど、結構真剣なものに移っていった。しかし、それでも必ず一度はふたりで大笑いをして、バスが揺れると転びそうになり、それでもまだ笑っているといった状態であった。並んでバスに乗っていて、和泉の髪の毛が僕の顔に触れたり、洋服と胸の間からあがって来る、彼女のミルクに似た体臭を嗅いだ時、嬉しいような、照れくさいような気分になった。僕は、和泉と過ごす時間のことを、他の誰にも言わなかった。それは、僕の隠れた楽しみであった。

和泉の性格は、概して甘えん坊ということができる。誰に対しても、よく甘えた素振りを見せる。しかし、それは他人の気を引くために後天的に身につけたものではなく、先天的に備わっているもののように僕にはおもえた。余りにも、誰に対しても愛想が良すぎるため、

「あんな、べたべたした女は好かん。」

という意見を持つ友人もいた。

「陽に焼けたな。」

と言うと、

「袖をめくってごらん。」

と言って、僕に彼女の二の腕の陽に焼けた部分と、袖に隠れている部分の色の違いを確かめさせたりした。小学生の頃、プールへいく時下に水着を着ていって、下着を忘れて行ったので、帰りワンピース下に何も着ないでバスに乗って帰ってきた、などという話もしてくれ、またひとしきりふたりで大笑いをした。

和泉とバスで一緒になったとき、僕はもう自分の家の近くの停留所で降りるつもりはなかった。必ず乗り越して、和泉が降りる停留所まで行き、そこで、また僕が反対方向のバスに乗るまで、話をして別れるのである。時々、和泉の家まで一緒に行き、おやつをご馳走になり、彼女のお母さんと話をしてから帰ることもあった。お母さんも愛想のいい気さくな人だった。

和泉は、誰に対しても愛敬があった。そこに魅かれたのであるが、それがまた悩みの種でもあった。和泉と話した後、僕は彼女を独占したような気分になるが、見ていると和泉は他の男に対しても、同じような親しみやすさで接しているのである。所詮僕は「One of them」であるという諦めの気持ちも感じていた。まあ、とにかく、楽しいからいいやみたいな感じで、僕はいつも三条のバス停で和泉の現れるのを待っていた。

 

初めて酒を飲んだこと

初めて酒に酔ったのは、高校二年の夏休み、落語研究会の合宿であった。落語研究会と言っても、文化祭で落語会をやる他は、昼休みなど畳の敷いてある学校の書道教室に集まり、馬鹿話をするだけで、ましてや合宿など、同じ書道教室に集まって夜通し遊ぶだけである。顧問の先生を交えて、友人達が麻雀をやっている間、麻雀を知らない僕は、週刊誌を読んだり、弾けないギターをいじくったりしていた。夜が更け、先生がいなくなってから、女子ロッカー室を探検しようと誰かが言い出した。僕らは女子ロッカーに侵入した。どのロッカーにも鍵がかっている。殆どは数字合わせの鍵である。僕は、その数字あわせの鍵を開ける才能があることを知った。他のやつらは只偶然を信じてカチャカチャやっているだけだったが、僕は、ひっかかりかたを分析して二十個以上開けて回った。

その後、書道教室に戻って、昼間に買ってあったカップ酒で、酒盛りを始めた。その晩、僕は初めて酒に酔った。「親子酒」と言う落語に、酒に酔った息子が父親に、

「こんな、ぐるぐる回る家はいらないやい。」

と言うくだりがあるが、まさに部屋全体がぐるぐる回り始めたようであった。そして、しばらくしてたまらない愉快な気分が訪れた。僕らは十人くらいで、夜の街にくりだした。 歌は唄わなかったが、大声で喚き散らしながら歩いた。近所の人たちにはおそらく迷惑であったろう。

僕には、何もかもが愉快に思えてきた。しかし、酔っ払ってはいたが、今でも自分自身の行動はよく覚えている。酒を飲んで「心にもないことを」言うというのではなく、お互いに酒を飲んでいるという気安さから、普段思っていることを「正直に」言うというほうが正しいようだ。僕は、仲間のひとりをつかまえて、

「おまえがつきあってる女は、おまえにはもったいない。おれによこせ。」

とからんでいたが、酔っているからそいつに面と向かって言ったものの、醒めてからも本心そう思っていた。

僕ら酔っ払い高校生の一団は、国道沿いにある二十四時間営業のコーヒーショップを見つけ、そこでコーヒーを飲んだ。その店を出てから、誰かが国道に架る歩道橋の上から、下を走る車に小便をかけ始めた。その後、仲間からはぐれ、いつのまにか独りになった僕は、おぼつかない足取りで、学校まで、それでも走って帰った。書道教室にたどり着くと、走ったために一段と酔いが回り、足元がますますふらふらになった。そんな時、しらふでいるやつほど、かわいそうな者はない。僕は、一人の男をつかまえて、ぐちぐちと女の子に振られた話を始めた。そのうち、酔っ払いの本隊が帰って来て、女子ロッカーから持ってきた憧れの女の子のストッキングに自分のザーメンをつけるやつが現れるなど、混乱を極めた。

酔いが醒めて、ぼちぼち眠ろうということになった時、窓の外は白み始めていた。僕は、空がだんだん青みを増し、次第にあたりが真っ青になっていくのを見ながら、眠りに落ちた。

その後も、同じメンバーで二、三回酒を飲んだ。僕は自分自身酒に強い方だと自覚した。何よりも、大勢で飲む酒と、食う飯のうまさは格別であった。大人たちが、なにかにつけて宴会を開き、酒を飲みたがる気分がわかるような気がした。酒を飲むと、必ず春歌のオンパレードになった。皆、次々とたわいもない歌を仕入れてきては披露をした。

酒の他に、煙草、麻雀、パチンコも高校二年の夏休みに初めて経験した。この中でやってみて面白いというか、興味を覚えたのは、酒だけであった。麻雀、パチンコなど勝負事は、僕の性格上熱中することは少なかったし、熱中しないことには勝てない。当然損をするわけだが、損をした時の後悔の気持ちも人一倍強かった。麻雀の役や点数の数えかたは、本気に覚える気にもなれなかったし、覚えても忘れがちであった。熱心な連中は、行き帰りの電車やバスの中で、麻雀の入門書に受験参考書のカバーをかけて、一生懸命麻雀の役を覚えていたが。

煙草は、近くに住む西田という男と、夜、建勳神社の石段で「峰」というのを初めて吸った。始めの、ぼんやりとした疲労感の後、調子に乗って二本三本と吸い続けると、頭がくらくらして、吐き気に襲われた。そのまま、家に帰って吐いて寝た。まだ陸上競技を続けていたので、コンディション上からも、煙草はあまり吸わないことにした。何人かの友人は、歯の裏が喫煙で黄色くなり、歯の検診の時、ばれるのでないかと心配していた。

これら一連の行動は、好奇心によるものが大きかったが、幼い時からかなり厳格にしつけられたことへの反抗、両親、特に父親へのあてつけも含んでいた。それと、酒を飲んで帰った後、猛然と数学の問題に取り組んでみたり、煙草を吸いながら、詩を朗読してみたり、そんな不調和を自分で楽しんでいるところもあった。つまらない用事をしながら、シューマンの交響曲を口ずさむ、そんなアンバランスが、優雅なことのように感じられた。

 

家出を試みたこと

中学の終わりの頃から、母がある宗教に凝りだし、それを父が嫌い、両親の仲は険悪を極めた。父は子供達に対してだけでなく母にも厳しかったが、その厳しさに対してのつけを支払うはめになった。この事柄については、ある程度決着がついてから、改めてページをさかなくてはいけないだろう。姉も僕も、家にいることがだんだんいやになっていた時期だった。

高校二年の一月の終わりのある日、陸上の練習を終えて家に帰ると、例によって、両親が激しくやりあっていた。僕はその頃、母に宗教から手を引くように奨める父の側についていたので、一言二言母を責め、その後腹立ちまぎれに家を飛び出した。僕が、一晩でも帰らなければ、両親とも少しは頭を冷やすだろうと思ったのだった。

その夜、家を出る時、僕は自分自身変な感じがした。なぜだろうと考えて、今日の僕には目的地がないことに気がついた。大抵、家を出る時は、学校に行くとか、友人の西田の家に行くとか、図書館に行くとか目的地がある。しかし、その日に限り、どこか遠くに行きたい、家を離れて一晩過ごしたいと言う気持ちしかなかった。

家を出て最初に思ったことは、国鉄に乗ろうか、私鉄に乗ろうかということであった。大阪行きの私鉄では、行く先がしれているので、国鉄に決め、京都駅行きのバスに乗った。バスに乗る前、小銭を作る必要と、何か文章を書きたいという衝動から、ボールペンとレポート用紙を買った。バスの一番後ろに座り、これからどこへ行こうかと考えたり、一晩家を空けた時の家人の反応を想像してみると、それなりにわくわくした気分になった。

バスは京都駅に着いた。僕はまず、売店で時刻表を買って、これから乗る列車の検討を始めた。山陰線に乗ることを決めた。しかし、夜行列車というのは寝台急行しかなく、それに乗るのには手間がかかる上、相当の金も要した。仕方なく、近距離の列車で行けるところまで行き、十二時過ぎに京都に着く最終で戻り、家までゆっくり歩いて帰ろうということで妥協した。どこかに泊まる金も持っていないし、野宿することなどとても考えられないくらい寒さが厳しかった。八時二十八分という列車があったので、それに乗ろうと思い、園部まで切符を買った。ホームに行くと、オレンジ色のジーゼルカーが停まっていた。反対側の東海道線のホームには、ひきもきらず快速電車が通り過ぎて行く。僕の乗ろうとした車両は、混んでいて座れそうになかった。僕は、道中、文章を書こうと思っていたので、是非とも座りたかった。あきらめて、次の列車にのることにした。

次の列車の発車時刻は九時〇五分であり、少し時間があった。僕は、バスの中で、誰かに、

「おれは今家出中だよ。」

と電話をかけて驚かせることを考えていた。相手の反応を想像すると何となく愉快だった。駅へ着いてみると時間がないのであきらめていたが、今、三十分ばかり時間ができた。

「誰か」に電話をする、と書いたが、和泉の他には考えられなかった。その日も、帰りのバスの中で彼女とずっと一緒だった。プラットフォームの売店から電話をかけた。他人に聴かれるのが嫌だったので、後ろに並んでいたおばさんに先にかけさせた。おばさんはひどくなまりのある丹波方言で、今から帰るということを家人に話していた。そのおばさんの電話が終わり、僕の番に戻った。僕は少し躊躇した後、和泉の電話番号を廻した。

電話口に出た和泉に、家で面白くない事がおきていること、今晩は家へ帰らない予定でいることを話した。僕が話し終わる前に、和泉が電話の向こうで叫んでいた。

「今どこにいるの? どこへも行ったらあかん。うちへおいで。寒いのに。家に帰れんかったらうちへおいで。」

和泉の声を聞いているうちに少し涙が出た。和泉の言うように、彼女の家へ行こうかという気持ちと、せっかく決めたことを今夜は孤独に耐え実行しなければならぬという気持ちが交錯し、僕は五秒ほど黙っていた。その間も和泉の声は、

「うちへおいで。」

と繰り返していた。僕は「遠く」へ行くことをあきらめた。

「おまえの顔を見たら、また考えが変わるかも知れんし、そんならこれからおまえの家へいく。すまんけど。」

僕がそういうと、和泉は電話の向こうで、

「そうおし。そうおし。」

と繰り返した。

僕は電話を切って改札を出た。目に涙が溢れた。頭の中に、和泉の

「どこへも行ったらあかん。うちへおいで。」

と言う声がまだ渦巻いていた。僕はその声の真剣さに正直驚いていた。

バスに乗ってからは、和泉の家で、事態を何と説明しようかと、そればかり考えていた。しかし、和泉の家に着くと、その必要はなかった。お母さんも、和泉のお姉さんも、彼女自身も、僕を至極普通の客として取り扱ってくれた。和泉の部屋で、向かい合わせに炬燵にあたって話をしていると、だんだんと愉快な気持ちにさえなってきた。和泉の前では、どんな重要なことも、取るに足らないことのように思えてきた。僕は、家に帰ろうと思った。深夜でバスはもうなく、自転車を借りた。和泉とお母さんが門で見送ってくれた。僕は礼を言って自転車を漕ぎ出した。

 

現在の私によるあとがき

以上で私の十七歳の時の自叙伝は終わっている。このままでは、中途半端なので、この後の経緯だけ簡単に述べておく。この後も、和泉は色々と私の心の支えになってくれた。今では結婚をして、京都で家庭を築いておられる。

私の両親はこの後三年に渡り家庭裁判所で争った後、私が二十歳の時、正式に離婚した。私は、深夜和泉の家を訪れたちょうど一年後、金沢の大学に合格し、京都を去った。その後、富山県黒部市、ドイツのマーブルク市、英国ロンドンと住まいを替え、京都に再び住むことはなかった。また、女子ロッカー室探検等、乱痴気騒ぎについては、同級生の堀井が、その著書の仲でも紹介している。私はその中で、「錠前破り名人」と呼ばれている。

それでは、エピローグとして私の「京都最後の夜」を紹介しておこう。

明日は金沢へ発つという日の夕食後、僕は家を出て、近くに住む西田を誘った。暖かい春の夜だった。西田とは、ふたりで夜にしばしば家を抜け出して、近くの神社や、公園で煙草を吸ったり、とりとめもない話をして過ごした。彼との会話は、いつも本当に「とりとめ」がなかった。落語の話をしていたかと思うと、次は相対性理論の話題になった。かと思うと、お決まりの女性の品定めが始まった。ふたりとも、落語、漫才の類が好きだったので、相対性理論や、女性や、その他雑多なことを「ネタ」にふたりで漫才をしていると言ってよかった。

ふたりで、駄洒落や、ジョークをよく考えた。例えば、兼子さんと女性が、金子さんちに嫁に行けば、金子兼子(かねこかねこ)になる。西郷隆盛が高森さんちに婿入りすれば、高森隆盛(たかもりたかもり)になる。何かのきっかけで、そんな話になると、ふたりで考えられる限りの姓名同音を出し合うのである。高尾隆夫、水江瑞枝、千秋千晶、と限りなく続いた。

西田は受験した大学に全て落ちて浪人が決まっていたが、その夜もふたりで近所の神社の石段に腰掛け、つまらないことで大笑いをした後、十時頃に別れ、家に帰った。家に帰ると母が、

「和泉さんから電話があったよ。」

と言う。和泉に電話をかけると、明日、僕が金沢に発つ時、京都駅で見送っていいかということであった。僕は、

「独りで出発したい気分やから。」

と、彼女の申し出を断ってしまった。その時は、本当に、独りで発ちたい気分であったのだ。

翌朝、京都駅から急行「立山」に乗って金沢へ出発した。列車が発車する時、窓に顔をつけて、和泉がいないか、プラットフォームを思わず目で捜していた。彼女がいるはずはなかった。僕は少し後悔した。その間に、列車は静かに京都の駅を離れた。

 

<了>

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