どっちが苗字
オフィスを出る間際に、僕は部下のチドゥに言った。チドゥはインド人の男性である。
「明日は僕、オランダに出張だからね。今、きみの作ってる書類、出来上がったら、オランダに送ってね。オランダのマツナガさん宛に送ってくれたらいいよ。僕は明日彼とずっと一緒にいるから。そうしたら僕の手元に届くから。」
「ええっ、誰に送ればいいんですか。もう一度言ってください。」
チドゥは「マツナガ」と言う名前が即座に覚えられなかったらしい。当然だよね。僕だって、インド人の名前を、一度言われただけで覚えられないもの。僕は彼に、コンピューターを「ロータス・ノーツ」に切り替え、メール画面を開くように言った。メール画面の宛先欄に、僕は自分で、「MATSUNAGA」と入力した。入力キーを押すと、検索機能が働く。マツナガさんはヨーロッパに一人しかいないらしく、「MATUNAGA、KATSUJI Netherlands」と僕のオランダの同僚のフルネームと所属が表示された。僕はそれを保存し、この人宛に送るようにと、チドゥに言った。
「じゃあね、頼んだよ。」
と言って帰ろうとすると、チドゥはまだひとつ質問があると言って僕を呼び止める。
「『マツナガ』と『カツジ』のどっちが苗字なんですか?」
この質問も至極もっともである。間違って、ファーストネームに「ミスター」を付けるという、よくありがちな失礼を、彼は避けたいと思ったのである。僕はチドゥの慎重さに満足しながら、「マツナガ」が姓であるからして、「ミスター・マツナガ」と最初に呼びかけるのが正しい、と答えた。
さて、翌朝、僕は朝四時に起きて、車でヒースロー空港に向かい、朝一番のアムステルダム行きの飛行機に乗った。九時前にスキポール空港に到着。到着後、例のマツナガさんに携帯から電話をして、無事着いた旨を伝え、車での出迎えを依頼した。電話を切ろうとするとマツナガさんが言った。
「川合さん宛の、メールが、ええと、誰だったかな、そうそう、テンナッパン・チダンバラムさんから届いているんですけど。」
一瞬、誰のことか分からなかったか、チドゥの本名が、そのような長い名前であることを思い出した。
「はい、知ってます。昨日その人に、僕への報告書を、マツナガさん宛に送っておくように、指示しました。」
僕はそう答えた。
「それで、この方に、書類を確かに川合さんに渡すと返事を書きたいですが。」
「はいはい。それはどうもご親切に。」
「でも、どっちが苗字で、どっちに『ミスター』を付けていいのか分からないですよ。」
僕は笑い出した。そして、マツナガさんに、僕の爆笑の原因を伝えた。