最後の電話
桜の咲きだした京都を後にする。
三月二十九日。この旅行記も最終章を迎えようとしている。最初、この旅行記は宮脇俊三さんのエッセーのように、列車と時刻表の話題を絡めて書くつもりであった。しかし、いつしかその初心は忘れ去られ、JRパスも京都に戻った翌日から使われないまま、昨日でついに期限切れ。今日は、タクシー会社の乗り合いタクシー便で関空に行く羽目になってしまった。尻切れトンボのエッセーとなり果て、お読みいただいた方には誠に申し訳ない。
京都を去る日は五時に目が覚めた。それ以上寝ていても仕方がないので、起きて布団を片付ける。父も六時には起きてきた。タクシーの迎えに来るまでの一時間、父と話をする。父の年齢、八十七歳を考えると、最後の日の朝の会話と言うものは、いつもお互い何となく、ぎこちなく、硬いものになってしまう。
「今年もこうして会えたんやもん。また来年も会えるさ。」
そう言って父と別れる。父は杖をついて、タクシーの待つ表通りまで来てくれた。
タクシーは数箇所で客を乗せた後、京都南インターから名神高速に入り、関空に向かう。京都の地下鉄のプリペイドカードがまだ千円分ほど残っていたのに気がつき、一緒に乗ってきた夫婦に進呈する。彼らはこれからフランスを旅行するという。
関空に着き、荷物をあずけた後、毎年の如く、日本滞在を「きつねうどん」で締めようとして、うどん屋と思しき店に入る。うどんを注文すると、そこは何と「そば専門店」であった。おいおい、大阪でわざとらしく「そば専門店」なんてやるなよ、火ぃつけられるで、などとブツクサ言いながらも、結局は朝の十時からビールと天ザルで、朝食兼昼食を取る。その後、中に入り、搭乗ゲートで、まだまだ午前中であるが、また熱燗とウルメイワシの干物で、二度目の酒を飲んでしまった。
アムステルダム行き、オランダ航空の飛行機が出るのは午前十一時半。飛行機は混んでいた。搭乗開始のアナウンスが流れる。子供連れ、ビジネスクラスの乗客が、中に入り始めた。携帯のスイッチも間もなく切らねばならない。そのとき、僕は急に誰かと話したくなった。僕は携帯から電話を入れた。誰に?相手は女性であるし、本人のご都合もあると思うので、ここにはあえて書かないことにする。(それなら、こんなエピソードを最初から入れるなよ。)
三列の通路側の席。隣はフランス人の夫婦であった。彼らが待合室でずっとトランプをやっていたのを僕は熱燗をなめながら眺めていた。一見気さくな隣人に思えた。しかし、実は最悪、彼らは一言も英語を解さなかったのである。フランス人であるからという理由で、彼らは英語を話さなくても世の中渡っていけると思っているのであろうか。ふざけている。
まずい機内食なんて食べる気もしない。僕は、父にもらった睡眠薬を口に入れ、出来るだけ早く眠ってしまおうと試みた。最後に話した女性の声が、かすかに耳に残っていた。
全長5キロに渡る関空連絡橋。上が道路で下が鉄道になっている。
(了)