ガダルカナル島の写真

 

昔通っていた銭湯は喫茶店になっていた。

 

京都駅からタクシーに乗る。京都のタクシーの運転手というのは、愛想の良い方と悪い方の両極端の方が多いよう。ある時など、少し気分が悪くなったので、少し窓を下げたら、

「オレ風邪ひいてんねんのにワレ何すんねん。」

と怒鳴られた。今日の運転手大和田さんはとても話好きで楽しい方であった。この方なら、修学旅行生を乗せて、名所を回っても、子供達は京都に良い印象を持ってくれるであろう。

「満開までは、あと二週間。お客さんが京都にいたはる間に桜が見れるとええですなあ。」

 昼過ぎに、実家に着き、八十七歳になった父と一年ぶりの再会。挨拶を済ませ、居間の掘り炬燵に向かい合わせに座る。父は、僕がクリスマスに行った、太平洋戦争の激戦地、ガダルカナル島の写真を見たいと言っていた。僕は父に分厚い写真の束を差し出した。

 父は第二次世界大戦に従軍している。主に居たところは中国の上海。その他、南京、重慶などにもいたことがあるそうだ。幸い、経理担当であった父は最前線に送られることもなく、五体満足で終戦を迎え、日本に戻ることができた。しかし、京都の部隊は南方に送られ、父のふたりの兄弟はフィリピン、レイテ島で戦死を遂げている。「戦死」といっても、私の訪れたガダルカナル島で亡くなった二万人以上の兵士と同様、実際は補給を絶たれての餓死だったのだと想像する。(大岡昇平の「野火」に詳しく書かれている。)

墜落した飛行機の写真、座礁した船の写真もそうだが、父は日本軍が放棄した大砲の写真を特に見入っていた。

「自分も、これに似たやつを撃った事がある。」

ぽつんと父が言った。僕は父に尋ねた。

「お父ちゃん、福三郎さん(兄)や四郎さん(弟)の亡くなった島へ行ってみたかったやろ。」

「そら行きたかった。そやけど、復員して働き出してからはとてもそんな時間も金もなかった。定年になってからはもうそんな体力はないし。第一、自分だけで行けるところと違うやろ。」

レイテ島とガダルカナル島、もちろんフィリピンとソロモンで場所は離れている。しかし、僕は写真を見せながら、父の兄弟の亡くなった場所とよく似た場所を、一目父に見せることができてよかったと思った。

 父と話をしながら、父母があり、妻があり、子供あり、恋人があり、過去があり、そして未来もあったであろう若者が(僕の息子と同年代の若者が)、何故、名も無い南の島で人生を終えなくてはならなかったのだろうかということに、改めて大きな憤りを感じた。

戦後、父は皇室嫌いになったと言う。占領軍の政策もあったのだろうが、「天皇陛下万歳」と叫ばれたその張本人が、戦後もその地位にあり続けた事が、父はどうしても全く納得がいかないという。僕もその点では父と同感である。もちろん、無謀な作戦を進めたのは一部の高級参謀であり、天皇はマリオネットにすぎなかったとは理解している。しかし、せめて同義的な責任を取って、昭和天皇は戦後退位するべきだったと思うのだが。

 

ガダルカナル島のジャングルに残された日本軍の武器の残骸。

 

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