Die Geschchte von Herrn Sommer ゾマー氏の物語

Patrick Sueskind パトリック・ズースキント

1991 一九九一年

 

<はじめに>

 

作者名を隠されてこの本を読まされたなら、この小説の作者が、あのおどろおどろしい「香水」の作者と同じであるとは、思いもしないだろう。それほど、この物語は、前作の「香水」や「鳩」とは違っている。少年の目から見た、ナイーブなタッチで、しかも軽快に描かれている。また、その印象は、この本が挿絵、イラスト付であることにより一層強められている。水彩で描かれた、ユーモラスでほっとするような田舎の風景の隅に、杖を持って歩き回るゾマー氏の姿がある。

至るところにちりばめられている、思わず微笑みたくなるようなユーモアと、涙が浮かぶようなペーソス。「香水」からこの作品、その余りのギャップの大きさに、同じようにシリアスなものから活劇まで、幅広い映画を世に送り出しているスピルバーグを思い出してしまう。

「ゾマー氏の物語」という題であるが、主人公はゾマー氏ではなく、語り手の「僕」であろう。「僕」の小学生から高校生にかけての成長過程の物語であり、ゾマー氏は、その節目節目にちょこっと顔を出すにすぎない。ゾマー氏は「僕」の成長に何の影響も与えはしないし、「僕」もゾマー氏の行動に何の影響も与えない。それでいて、このタイトル。分からないようで、よく分かる。

 

 

<ストーリー>

この物語は、いくつかのエピソードから構成されている。

 

小学生の頃、「僕」は本気で空を飛べると信じていた。飛ばなかったのは、そのきっかけがなかっただけで、その気になりさえすれば、空を飛べただろうと主人公は主張する。風強い坂道で、もうすんでのところで空を飛ぶところまで、いったくらいだと。

体重が重くなって、ちょっと空を飛ぶのが難しくなってきた頃、今度は「僕」は木登りに熱中し始める。「僕」は、木の上で、読書をしたり、宿題をしたり、次第に長い時間を過ごすようになる。

「僕」は湖の傍の村に住んでいた。その村にゾマー氏という不思議な人物がいた。一日中辺りを歩き回っているのである。何か用事があって歩いているわけではない。単に、歩いているのである。リュックサックを担いで、杖を持って、時には、一日に何十キロも歩いている人物であった。

人々は、彼のその行動が「閉所恐怖症」から来るのではないかと噂をした。

 

「僕」が競馬好きの父親のお供をして車で競馬場からの帰り、嵐になり、雹が降りだし、辺り一面は雹に覆われる。そんな天候の中でも、ゾマー氏は杖をついて歩いていた。父親が車を停め、ゾマー氏に乗っていくように勧める。しかし、ゾマー氏は申し出を受け付けない。父親は、

「そんなことをしていたら、死んでしまいますよ。」

とゾマー氏に呼びかける。

「死ねば本望だ。楽になるから。」

ゾマー氏はそう答え、悪天候の中を歩き去って行く・・・

 

 「僕」は小学校で、カロリーナと言う名の、ちょっと高慢で「女王様」的な女の子を好きになる。カロリーナは湖の反対側に住んでいるので、学校の行き返り道「僕」と一緒になることはない。そんなカロリーナが、

「月曜日は、知り合いのおばさんの家に帰るから、あんたと一緒に帰るわ。」

と言う。「僕」は、どの道を帰ったらいいか、入念にコースを選定し、途中に食べるお菓子などを隠すなど、月曜日に向けて周到な計画を立てる。さて、当日の月曜日、事態は「僕」の計画通りに運んだのだろうか・・・

 

「僕」は、母親の大きな自転車に乗って、少し離れたフロイライン・フンケル(ミス・フンケル)のところにピアノのレッスンに通い始める。フロイラインと言っても、もうかなりの年配で、髭をはやしたおばあさんである。(実際、ドイツのおばあさんには髭をはやした人がよくいる。)

ある日、「僕」は、途中で、犬と出合ったり、何度も通行人とすれ違ったりして、レッスンの時間に遅れてしまう。(大きな自転車に立ち乗りをしているので、複雑な動きを要求されるときは、自転車を押して歩かなければならないからだ。)遅れたことで、一通り文句を言われた「僕」。最初の曲を上手く弾けずにさらにフンケル先生の怒りを買い、さらに、黒鍵の「イ・フラット」を弾き間違えてしまう。次はもう間違えられない。しかし、その「イ・フラット」のキーにはフンケル先生の「鼻くそ」が付着していた・・・

 

 父親がテレビを買わない方針なので、高校生になった「僕」は夕方、近所の友達の家にテレビを見に行き、八時の夕飯の時間に急いで自転車で戻るのが日課であった。ある夜、家に戻る途中、湖の畔で自転車のチェーンがはずれ、それを修理している「僕」の目に、湖の中に膝までつかっているゾマー氏の姿が映る。ゾマー氏は夜の湖で何をしようとしているのだろうか・・・

 

<物語について>

 

 誰もが経験する子供のころの「大事件」を、ユーモラスに描いている。大人になって考えてみると、また、大人の目から見ると、本当に取るに足らないことなのであるが、当事者の子供にとっては、重大事なのである。

 白いキーだけ弾いていれば楽しい曲の中に、突然現れる「シャープ」や「フラット」。しかも、そのシャープのキーには老先生の「鼻くそ」がへばりついている。あと四小節、あと三小節、その場所が近づいてくる中で、「僕」は「神様、奇跡を起こしてください。」と心で祈る。結局、奇跡は起きず、「僕」は不条理な人生に失望して、自殺を企てる。

 本人が真剣であるだけに、笑いを誘うのである。しかし、反面、つまらないことを真剣に受け止めていた幼いころの自分を思い出す。そして、その頃の自分を思い出し、懐かしく、いとおしくなり、何となくセンチメンタルになってしまう小説である。

 好きな女の子と学校から一緒に帰る。そのとき、どんなことを話しようかと、何日も前から考える。私も中学のころ、初めて学校の帰り道、女の子を誘った。その数日前、段取りを考えているうちに、眠れなくなってしまった。それが私の経験した、初めての不眠であった。この、ズースキントの小説を読んでいると、そんな、私自身の過ぎ去った時間までが蘇ってくる。

 

 ズースキントは、ホルツハウゼンという、バイエルン州の小さな村で、子供時代を過ごしたと言う。おそらく、舞台になる湖の畔の村には、ズースキントの少年時代の風景が使われていると思う。

そして、彼は私の六歳上。同じ敗戦国で、戦争の名残はあるものの、戦争を知らないで育った世代である。主人公の「僕」が友達の家で見ていたテレビ番組が「名犬ラッシー」。私にとっても懐かしい番組だ。話を客観的に受け止められないで、必要以上に自分の体験と重ね合わせてしまうのも、ここらに原因がありそうだ。

私は、この小説を息子に読ませてみようと思う。生まれ育った世代は違うが、主人公と同じ年頃の息子が、主人公の「僕」と、どこまで一体感が持てるか、興味深い。

 

結局、ゾマー氏は何故、毎日、何十キロも歩き回っていたのであろうか。分からないままである。前作の「鳩」で、「ヨナタンが何故鳩を見て死ぬほどの恐怖を覚えたか」が分からないままであったように。「死ねば楽になる」というゾマー氏言葉が正しいとするならば、生きていくために、きっと、どうしても必要なことだったのだろう。

 

改めて、ズースキントを好きになった作品であった。