さらばゼーリゲンシュタット
ゼーリゲンシュタットの町並み
東京発のルフトハンザ機は、朝の八時にフランクフルト空港に着陸した。自動ドアから外に出ると、三島社長が待っていた。この人が、これから僕の上司になる人であった。
「お前、山登りみたいな格好で来たな。」
開口一番、三島さんが大阪弁でそう言った。僕は、ダウンジャケットを着て、下はジーンズだった。当時、アンカレジ経由で十七時間近くかかる空の旅を、背広とネクタイで過ごすことなど考えてもみなかった。しかし、海外赴任というのは、背広とネクタイで来るものなのだろうか、社長の言葉を聞いてそう思った。
「着替えはスーツケースの中にありますから。会社に着いたら着替えさせてください。」
僕はそう答えた。
三島さんは僕とスーツケースを自分のメルセデスに乗せると、空港から出てアウトバーンを走り出した。時速百八十キロで。初めてドイツに着いた人間を自分の車に乗せ、高速道路をぶっ飛ばして怖がらせるのが三島さんの趣味だと、後から聞いた。
「フランクフルトの空港と、事務所と、工場はちょうど二等辺三角形の位置関係や。」
などと三島さんが説明してくれるが、方向感覚はまるでない。夕方のように薄暗い中を、黒々とした森が後ろに飛び去っていくのを眺めるばかりであった。今日、日本は勤労感謝の日で休みだな、僕はふと見送りに来てくれた妻を思いだした。妻のマユミとは一ヶ月前に、結婚式をあげたばかりだった。
二十分ほどで事務所に着いた。事務所は人気のない、何となく荒涼とした工業団地の一角に、地味な印象で建っていた。前は鉄道の引き込み線で、その向こうが米軍のレーダーサイトだった。僕は背広に着替え、会社の簡単な説明を受けた後、主だった社員に紹介された。三島社長の他に、営業の安達さん、倉庫担当の稲毛さん、経理の高山さん、加工場の野田さん、小売りの高岡さんと全部で六人の日本人がそこで働いており、その外、五十人ほどのドイツ人の従業員がいた。僕は、コンピューター担当、七人めの日本人社員であった。
その日、昼間は経理に昔からあるドイツ製のコンピューターと、新しく入るIBM製のコンピューターを見た。IBM機については日本で研修を受けてきていたが、ドイツ製の古い方は、中がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。夕方になり、長旅の疲れと、時差でさすがに疲れがでて朦朧としてきた。飛行機の中で殆ど寝られなかったので、三十六時間近く寝ていないことになる。現地人社員はとうの昔に帰宅してしまい、残っているのは日本人だけ。ところが、七時になっても、八時になっても、誰も帰ろうとしないのだ。何となく、仕事をしている、あるいは仕事をしているような振りをして、お互い牽制し合っているような感じなのだが、誰も帰ろうと言い出さないのだ。僕は、一番歳が近くて、話し易そうな野田さんに、
「皆さん、帰らないんですか。」
と聞いてみた。
「帰る時は、皆一緒に帰るんや。それがチームワークというもんやちゃ。」
と、技術者で富山出身の野田さんは富山弁で答えた。その時は、変なチームワークもあったものだと思って聞いていた。結局、社長の三島さんよりは誰も先に帰れないのだ、と気が着いたのは数日後のことである。
九時過ぎになって、社長が、
「おい、安達。ぼちぼち行くぞ。」
と向かい側にすわっている営業担当に言った。それを聞いて、他の日本人も立ち上がり、帰る用意をしはじめた。僕は、これでやっと眠れるとほっとした。しかし、その後近くのレストランで僕の歓迎会が予定されているということを安達さんから聞いて、僕はさすがにげんなりした。レストランで僕はビール一杯とオムレツを注文し、その後、新しい同僚の話が頭の上を飛び交っているのは感じたが、全く頭には入って来なかった。
「とにかく、どうでもいいから俺を寝かせてくれ。」
そう叫びたい気分だった。
ホテルに三泊した後、会社が用意していてくれた住まいに移った。家は会社から三キロほど離れたセーリゲンシュタットという街の、Brueder-Grimm-Strasse(グリム兄弟通り)というところで、ブルーノ・ヴィンクラーさんと言う名の配管屋の家の二階であった。奥さんはルシールと呼ばれていたが、日本人で、僕と日本語で話せることを喜んでいた。
ゼーリゲンシュタットはマイン川のほとりにある人口数千人の古い街で、ローマ時代の遺跡があった。街中は趣のあるたたずまいで、石畳の街を歩いていると、突然角から赤頭巾ちゃんが現れても不思議でないような街だった。街の中心にバジリカと呼ばれる、赤っぽい石で作られた丸屋根の巨大な教会が建っており、その後ろには修道院があった。変な話だが、ここの墓地がきれいで、散歩に最適だった。驚いたのは、渡し舟があることだった。川幅百メートルくらいのマイン川を、人と数台の車を運ぶ市営の渡し舟が往復していた。国防上の理由か、船の航行のためか、ドイツでは大きな川に橋が少なく、マイン川も、大都市からはずれたこのあたりには、百キロメートル近く、一本も橋がなかった。その代わり、各所に渡し舟(フェーレと呼んでいた)があった。
住む街は気に入ったが、職場の雰囲気はどうしても好きになれなかった。ドイツ語が不自由なく話せたので、ドイツ人社員とのコミュニケーションは順調で、彼らも僕にとても好意的だった。しかし、まず、日本人社員のだらだらと長い勤務時間が嫌だった。定時の四時半になるとさっと潮が引くように帰って行くドイツ人社員と、その後、毎晩九時、十時までいつも残っている日本人社員。忙しければ、残業すればよい。しかし、仕事が一段落すれば帰ればよいではないか。それぞれが別の職責を持っているのであるから、その日忙しい人もいれば、忙しくない人もいる。一番遅い人間にあわせて、全員が残るのが野田さんの言うチームワークなのだろうか。特に社長の三島さんは、夕方になると事務所でゴルフの練習を始める。紙をくしゃくしゃと丸めたボールをクラブで打つのである。仕事をしている、僕の頭の上をその紙のボールが容赦なく飛んでくる。その後、八時頃に急にミーティングと言われて、十時まで残されたのではこちらがたまらない。
もうひとつ嫌なことは、日本人社員が三島社長の顔色ばかり見て仕事をしていることだった。社長であるから、尊敬と服従の気持ちを持って接するのは当然である。しかし、組織の中では、各自一応自分の持ち場を与えられている訳であるから、自分の立場からの、提案、反論も当然あるべきだと思う。しかし、そこには、追従と、奴隷的な服従があるばかりに見えた。僕が、少しでも反論をすると、三島さんは不機嫌になった。
「お前は誰に向かってものを言うとるんじゃ。」
と、大阪弁の決まり文句でおしまいになった。
実際、三島さんの大阪弁は、僕に下品な印象を与えた。大阪弁は耳慣れているはずなのに、話の内容からだろうか、三島さんの言葉はまったく別の地方の言葉のように思えた。
「勤務時間中は、全精神を仕事に打ち込め。」と言うのはよく分かる。職場では、全身全霊を打ち込んで仕事をすることは当然だ。しかし、当時三島さんが日本人社員に要求してたのは「睡眠時間以外の全ての時間を会社に供出せよ。」ということのように思えた。
もちろん、僕も入社半年で、学生気分が抜けず、また、日本ではコンピューターの研修しかしていないので、生産、販売されている製品についての知識はゼロに等しかった。また、入社して半年で、日本の会社組織というものを、よく理解していなかったのかも知れない。三島さんのような上司が日本では一般的なのかもしれない。ともかく、この人とやっていけない、そう思った。そう思って仕事をしていると、どうしても態度が反抗的になるのか、三島さんにはよく怒鳴られた。
ドイツの冬は暗くて寒いが、その年は特に寒い冬だった。連日マイナス十度を下回り、ゼーリゲンシュタットの街を流れるマイン川が中心の、船の通る十メートルほどの幅を残して凍結した。
一月の始め、昼飯にソーセージを食ってから、腹が痛くなった。しばらく休んでから医者へ行った。医者は、たいしたことはないと言うので、仕事に戻り、夕食にいつものようにレストランでビールを飲み、肉料理を食った。その夜から、腹痛と、激しい下痢に襲われた。翌日医者へもう一度いくと十二指腸潰瘍だと言われた。医者を出て、会社に行き、社長の三島さんにその旨を告げた。
「それで、働けるんか。」
と社長は聞いた。僕は、
「いや、迷っているんです。」
と行った。
「迷っているんなら働け。」
その社長の言葉に、血が上った。
「休みます。」
そう言い残して、僕は事務所を出て家に戻った。いずれにせよ、到底働ける状態ではなかった。下痢がひどかった。何を食べても身体を素通りした。どうしていいのか分からないので、医者に電話をすると、脱水症状にならないように茶に食塩を入れて飲めと言う。そうすると、その食塩水が、十五分後には下痢で出てしまうのだった。それでも、結局三日しか、会社を休まなかった。三日めの午後に、安達さんから電話があり、決算の為の資料作成のために出ろと言われた。僕は下痢がなんとか止まったので出社した。四日間何も食っていなかった。
それに懲りて、僕は生活を少し変えた。朝、軽いジョギングをして、朝食を十分に食べる。夜遅く食べる食事は軽くして、寝るときに胃に負担がかからないようにした。幸い軽症だったようで、薬を飲んでいるだけで治り、その後、十二指腸潰瘍に悩まされることはなかった。
二月になり、本社での国際会議に出席するために、三島社長が日本へ行くことになった。社長が会議で発表するときに使う資料作りが始まった。一九八四年の当時は、コンピューターグラフィックはもちろん、オーバーヘッドプロジェクターもなく、グラフなどは大きな紙にフェルトペンで書いて行くのである。僕は、字を書くこと、レイアウトなどは自信があった。三島さんから大体の構想と数字をもらうと、会議室でグラフを書き始めた。最初に書いたグラフは没になった。社長は、その色使いが気にいらないという。また、わかりやすいように出来るだけ四角い文字で書いたところ、カタカナの「シ」と「ツ」の区別がつかないと言う。
「自分の判断で書くな。何でも俺に相談しろ。」
と言う。いいかげん頭に来ていた僕は、その後些細なことまで、
「三島さん、次の色は何がいいですか。」
などとうるさく聞きに行った。今度は、向こうが腹を立てて、
「俺の見ている前で書け。」
と言うことになり、結局、事務所の社長の机の前で、床の上に紙を広げてグラフを書いた。
例によって、真夜中近く、皆が一緒に帰ることになり、三島社長のメルセデスが走りさった後、僕は、
「糞っ垂れ、交通事故で死んでしまえ。」
と呪った。
三月に入ると、気温は相変わらず氷点下だが、日も長くなり、晴れの日が多くなってきた。ある日曜日、前日の吹雪もやみ、からりと晴れ渡った。気温はまだマイナス十度くらいだったが、日差しに誘われて外に出て、マイン川のほとりまで歩いてみた。樹木という樹木の枝々に細かい雪がびっしりとこびりつき、それが陽光に輝き、満開の桜の木を見るようだった。この世のものとは思えない、幻想的な景色だった。
幸いなことに、工場にいる社員と僕が交代して、僕が工場で働くことで話が進んでいた。工場がどんなところかはよく知らなかったが、ともかく、三島社長から離れられるのは嬉しい知らせであった。工場に行く前に、僕は一つの大きな仕事を片づけなければならなかった。これまでドイツ製の古いコンピューターで印刷された販売実績を、パーソナルコンピューターにもう一度入力し直して本社への報告書を作っていたが、今後、古いコンピューターからIBM製の新しいコンピューターへデータを伝送して、そこで帳票を作成するという計画だった。一ヶ月でということで引き受けたが、今考えてみると、作業規模からして無茶な考えだった。しかし、工場への赴任を遅らせたくはなかった。僕は、土曜、日曜も全部会社に出て、ひたすらプログラムを組んだ。十二指腸潰瘍の再発が懸念されたが、なんとか持ちこたえた。そして、四月の最終週、明日は転勤と言う前日の夕方、プログラムを仕上げた。
翌日の午後、荷物を車に積んでゼーリゲンシュタットを出発した。刑期が終わって刑務所から出所するような、晴れ晴れとまでいかないが、ほっとした気分だった。工場あるマーブルクまでは百五十キロ、アウトバーンを飛ばすとほんの一時間ほどの距離だった。しかし、そこが別天地のように思われた。二週間後には、妻が来ることになっていた。ゼーリゲンシュタットもいい街だったので、妻が来たら是非また訪れたいなと思った。