「ローゼンヘルツのファイル」
Die Akte
Rosenherz
(2010年)
<はじめに>
フランクフルト警察の警視、ロベルト・マルターラー・シリーズの四作目。ヤン・ゼグハースは寡作ではある。しかし、それだけに作品の粒は揃っている。読み応えのある作品であった。フランクフルトという、ドイツでも一番魅力のない街を舞台にしながら、それなりに「見せて」いるのもなかなかのもの。何十年前に起こった未解決の事件に改めて光を当て解決していくパターンは、アガサ・クリスティーの「象は忘れない」以来、時々目にするパターン。
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テレザが運搬中に盗まれたことになる「小さな楽園」、「北ヘッセンの名人」の作。
<ストーリー>
一九六六年、フランクフルト旧市街のアパートの一室で、カリン・ローゼンヘルツの惨殺死体が、同じアパートに住むイタリア人の青年によって発見される。彼女は、高級売春婦として実業家や政治家を相手にし、ベンツを乗り回し、裕福な生活を送っていた。そして、自分の周りの若い男たちを、召使いのように遣っていた。八月三日、彼女は、フィリップ・リヒテンベルクという会ったこともない男から、誕生パーティーの招待状を受け取る。彼女は、若い男にベンツを運転させ、その会場に向かう。
翌朝、同じアパートに住むイタリア人の青年、ファウスト・アルバネリは、カリンの部屋の扉が開きっぱなしになっていることに気づく。彼が仕事から帰った夕方になっても、扉は開きっぱなし、彼は一緒に住む二人のイタリア人の友人とともに、カリンの部屋に入る。そこには、滅多刺しになったカリンが血の海の中に倒れていた。それは、死体を見慣れた検視医や警察官でさえも目を背けたくなる、凄惨な光景であった。名誉欲と出世欲に燃える若手の検察官トラウゴット・ケーラーがこの事件の捜査の指揮を執ることになる。彼は捜査チームに厳しい緘口令を敷いて捜査を進める。しかし、結局犯人は捕まらず、事件は未解決のまま終わる。
二〇〇五年、フランクフルト警察の警視、ロベルト・マルターラーはパートナーのテレザが妊娠したのをきっかけに、第一線の捜査班から離れ、「コールド・ケース・ユニット」に移った。「コールド・ケース・ユニット」とは、過去の未解決事件、「コールド・ケース」に再び光を当て、新しい観点から調査をし直すという課であるが、現在のところ、マルターラーの他、メンバーはいない。
ある夜、マルターラーは容疑者の見張りをしているとき、近くのアパートから若い男と一緒に出て来るテレザを見る。その親密な様子にショックを受けたマルターラーは、その夜大酒を飲んでアパートに戻る。翌朝、まだマルターラーが眠っている間に、テレザはアパートを出て美術館で絵を受け取り、美術館の車で、ふたりの護衛とともにフランクフルト空港に向かう。彼女は有名な絵「小さな楽園」を、シュテーデル美術館からプラハに運ぶ役目を担っていた。空港に程近い場所で、美術品運搬車は二人のオートバイに乗った男に襲われる。ガードマンの一人は射殺され、テレザも胸に銃弾を受け、重体となりヘリコプターで病院に運ばれる。
犯行現場に呼ばれたマルターラーは、テレザが重傷を負ったことを知る。彼は、捜査班に入って、自分の恋人を襲った犯人を自らの手で捕らえることを熱望する。しかし、彼の上司はそれを拒む。被害者の関係者は捜査に加われないという鉄則の他に、それには、もうひとつの理由があった。マルターラーが被害者のテレザのパートナーであることが分かっているので、マスコミが彼を追いかけることが目に見えている。そのマスコミに追い回されている人間を捜査班に加えることは不可能ということであった。案の定、マルターラーが自分のアパートに戻ると、その前にはマスコミ関係者がたむろし、家に入ると取材の電話が鳴りっぱなしという状態。マルターラーは、警察の鑑識官であるザバトの家に隠れることにする。
ザバトはマルターラーにこれまでの美術品盗難事件のパターンについて説明する。美術品には保険が掛かっているので、盗難の後、保険会社は美術館に保険金を支払う。その時点で、美術品の所有権は保険会社に移る。その所有権を、美術館は安価で保険会社から買い戻す。その後、美術館はコンタクトを取ってきた犯人のエージェントと交渉し、美術品そのものをエージェントから買い戻すというものであった。
マルターラーは何度もテレザの入院する病院を訪れる。医者からは、テレザの容態は極めて深刻で、予断を許さないと伝えられる。そんな中で、マルターラーは、フランクフルトの大衆紙の記者、グリューターから連絡を受ける。警察の捜査班から外され、情報が何も入らないマルターラーは、情報を得るためにグリューターと会うことにする。グリューターはマルターラーを、ミクロというスロバキア人の経営するクラブに連れていく。そこで、前夜グリューターはグンドラッハという刑務所に看守に会い、看守が、美術品盗難事件の情報を持っていることを知ったという。マルターラーは警察の情報を記者に流す代わりに、そのグンドラッハと会わせるという取引に応じる。彼らはグンドラッハに会う。グンドラッハは、刑務所を出たばかりの「チビのブルーノ」と呼ばれる男と道で出会い、彼が、
「俺は盗難事件の犯人を知っている。しかし、それを言ったら、自分は殺される。」
と言ったことをマルターラーに告げる。
マルターラーの次の仕事は、もちろん、「チビのブルーノ」を捜すことである。マルターラーは、フランクフルト中のホームレスのホステルに電話をかけ、ブルーノが泊まっていなかどうかを尋ねる。果たして、ひとつのホームでブルーノが泊まっていたことが分かる。しかし、そのホームを警官が訪れた後、彼は姿を消していた。マルターラーは同じホームに泊まっていた男から、ブルーノがホームレスに食事を提供する食堂に、自分の「ガールフレンド」がいると言っていたことを知る。マルターラーはその食堂を訪れ、ブルーノが「ガールフレンド」と呼んでいた、シュテフィという若い女性に会う。シュテフィは数日前にブルーノが食堂を訪れたこと、その際、美術品盗難事件のニュースをラジオで聞いて、動揺していたことを告げる。ブルーノは手紙を書き、それに封をして、自分が死んだら開けるようにと言って、シュテフィに預けていた。マルターラーはその封筒を開けるように頼む。その中には一枚の紙が入っていて、そこには「ローゼンヘルツ」とだけ書かれていた。
どこか聞いた名前だと考えながら、マルターラーは「ローゼンヘルツ」についてインターネットで調べる。しかし、該当が多すぎて絞り込めない。彼は、新聞記者のグリューターに連絡を取る。グリューターはその名前にすぐ見当が付いた。それは未解決になっている四十年前の殺人事件の被害者の名前であった。グリューターは、その事件の概要をマルターラーに説明する。
アンナ・ブーフヴァルトはハンブルクでジャーナリストを目指す二十四歳の女性である。必ずしも幸せでない子供時代を送った彼女は、独立心に富む女性に成長していた。彼女は、インゲボルク・カルツの主宰するジャーナリスト養成学校に応募し、その入学試験のために「ローゼンヘルツ事件」をテーマにした長文の記事を書いていた。彼女はマインツにあるヘッセン州公文書保管所を訪れ、「ローゼンヘルツ事件」に関する書類を読み、それをハンブルクに送らせる。彼女はそれを詳細に読み、資料をまとめ、記事にしていた。ある日、アンナは、グリューターという記者がフランクフルトの大衆紙に書いた記事を見つける。そこには
「フランクフルト警察のロベルト・マルターラー警視が、迷宮入りになっていた『ローゼンヘルツ事件』の捜査を再開することになった。」
と書かれていた。彼女は、校長のインゲボルク・カルツに自分の不在を告げ、書類とテントと寝袋を車に積み込み、フランクフルト市内のキャンプ場を予約し、フランクフルトへ向かう。
マルターラーは警察の資料室に「ローゼンヘルツ事件」の資料を探しにいく。しかし、そこにはなかった。彼は検察庁の資料室も探すが、そこにも資料はない。彼はマインツにある州の公文書保管所に連絡を取る。
アンナはフランクフルトに着き、キャンプ場にテントを張る。翌日、自分を訪ねてきた警官がいることを知る。それはマルターラーであった。最初疑心暗鬼から腹の探り合いをしていたふたりだが、最後は協力して事件の解決に当たることを決める。
二人で夜遅くまで資料調べとブレーンストーミングをした翌朝、マルターラーの家の電話が鳴る。アンナは受話器を取る。それは「チビのブルーノ」からの電話で、墓地で直ぐに会いたいというものだった。アンナはマルターラーを起こすが、彼は起きて来ない。アンナは独りで墓地に出かける。そして、墓地の廟の中で、ブルーノが血まみれになって倒れているのを発見する。ブルーノはアンナに、
「絵が・・・」
と言ってこと切れる。
アンナはその後、カリン・ローゼンヘルツの死体を最初に発見したイタリア人の一人、ファウスト・アルバネリを訪れる。彼は中古自転車の修理と販売をやっていた。自転車を探すという口実で彼の家を訪れたアンナは、彼を巧みに誘い、彼と寝る。そして、その代わりに貴重な情報と資料を得る。アルバレリはカリンの殺された前夜、一人の金髪の男をカリンの部屋の前で見ていた。また、彼は、事件の後訪れたカリンの夫から書類を預かっていた。アルバレリはその書類をごく最近になってから開封したという。その書類の中に一枚の写真があった。その写真に、カリンが若い男と一緒に写っていた。アルバネリはその男こそ、彼が夜、カリンの部屋の前で見た男だと断言する。彼は、警察に、若い男を見たことを証言していた。しかし、アンナの持つファイルからその情報は抜き取られていた。
マルターラーは、既に引退している元検事のトラウゴット・ケーラーを訪ねる。ケーラーは「ローゼンヘルツ事件」を担当していた。ケーラーはイタリア人青年が、証言をしたことを覚えていた。マルターラーはアルバネリの持っていた写真を元検事に見せる。ケーラーはその男が誰であるかを知っていた。それは、カリンが死の前日訪れた、フィリップ・リヒテンベルクであった。元検事は、リヒテンベルクもかつて捜査線上に上がったが、内務省の横槍で、リヒテンベルクに対する捜査が打ち切られたことを告げる。リヒテンベルクの両親は、裕福な画商で、州の経済界では重要人物であった。また、計四人が、当日のリヒテンベルクのアリバイを証言していた。それは友人二人と、売春婦が二人であった。
マルターラーは、証言をしたふたりの売春婦を探すために、彼女たち住所のあったオッフェンバッハの警察署を訪れる。そこで同僚の協力を得て、二人の売春婦の行方を探る。ひとりは既に死亡。もうひとりのハンネローレ・ヴィルクはローゼンヘルツ事件の二年後、行方不明になり、娘から捜査願が出ていた。
アンナはその行方不明になった、ハンネローレ・ヴィルクの娘、カチアを訪れる。アンナは娘から、母親の遺品を預かる。その中には預金通帳があった。事件の後、二年間、行方不明になる直前まで、毎月二千マルクの金が振り込まれているのをアンナは発見する。そして、その送金は、彼女が行方不明となると同時に途切れていた。
マルターラーは、死の直前までカリンの写真を撮っていた、当時の美術学生、ゼバスティアン・ハバーシュトックを訪ねる。ハバーシュトックはかつてリヒテンベルクの同級生でもあった。彼は、カリンの殺される数日前に、彼女の部屋で撮った写真をマルターラーに見せる。そこには、二枚のデッサンが写っていた。しかし、警察の撮った現場写真ではそのデッサンは消えていた。ハバーシュトックによると、そのデッサンは著名な画家ポール・クレーのものだったという。アンナを殺した犯人は、その二枚の絵を持ち去ったのであった。
リヒテンベルクがローゼンヘルツ殺しの犯人であるとの確信は深めたマルターラーであるが、証拠は依然として希薄である。マルターラーは、記者のグリューターに、リヒテンベルクが容疑者として挙がっていることを記事にしてくれるように頼む。そのことにより、リヒテンベルクを行動に移させ、彼が自ら墓穴を掘るのを期待したのだ。グリューターは、ニュースソースとして、マルターラーの実名を出すことを条件にそれを引き受ける。
リヒテンベルクの屋敷でパーティーが開かれるという情報を得たアンナは、マルターラーに内緒で、行動に移る。彼女は、ダンツヴィーゼンという村の人里離れた場所にある屋敷に近付き、厳しい警戒に対して策を弄してパーティー会場に忍び込む。アンナは受付で「カリン・ローゼンヘルツ」と署名をする。主催者のリヒテンベルクの姿は見えない。彼女は、リヒテンベルクに容疑がかかっていることが、ラジオの十時のニュースで流れることを知っていた。彼女は音楽のミキサーに、十時になったらスピーカーをラジオに切り替えるように頼む。果たして、十時になり、招待客の前で、主催者のリヒテンベルクに殺人容疑がかかっているニュースが流れる。アンナは大騒ぎになった会場を抜け出し車に乗る・・・
高層ビルの立ち並ぶ、ドイツでは異質のフランクフルトの街。
<感想など>
先にも述べたが、四十年前の事件を解決していくという話。その時誰も解決できなかった事件を、何年も経ってから、名探偵が新たなスポットを当て、解決するというパターンはよくある。しかし、この「ローゼンヘルツ事件」、四十年前の捜査にかなり問題があるような気がする。
「どうして四十年前にそんなことに気が付かなかったの?」
と言いたくなる。同時に、二〇〇五年にフランクフルトで起きた、美術品盗難事件もテーマとなっている。このふたつの事件が最終的にどう関連していくのかが、この物語の興味となる。
今回の主人公は、マルターラーが半分、残りの半分はアンナ・ブーフヴァルトである。はっきり言って、テレザが撃たれたため、オロオロになっているマルターラーを叱咤激励し、事件を解決に持っていくのはアンナである。彼女は、「若い女性である」ということを武器に、事実を探っていく。とにかく、証言を得るためなら、相手の男と寝るという執念は、凄まじいの一言。
「何故アンナが『ローゼンヘルツ事件』にそれほど執着するのか。」
それが、最初少し不自然に思われるが、最後にその不自然さを納得させる説明がついている。
美術品が盗難にあるという事件には時々出会う。この作品で盗難に遭うことになったシュテーデル美術館所蔵の「小さな楽園」(Paradiesgärtlein)は実存する絵画である。それをプラハの美術館に貸出し、その運搬をマルターラーのパートナー、テレザが請け負うという設定になっている。誰もが「有名な美術品を盗むこと」が「割に合う」のかという疑問を覚えるだろう。世界に一つしかないものをどのように換金するのか。売った時点で「足が付き」捕まってしまうのではないかと。そこで考えられるのは、とんでもない金持ちがその絵を買い、死蔵して密かに楽しむ、そんなイメージがある。しかし、マルターラーの同僚ザバトによると、ちゃんと犯人とって「割に合う」解決策があるという。
この物語、四十年前の事件については、意外に早く犯人が読者に明らかにされてしまう。どんでん返しの面白さは希薄である。しかし、過去と現在、人間関係が巧みに組み合わされていて、読んでいる者を飽きさせない。
今回もマルターラーは警察組織から「はみ出し」まくっている。警察の情報をマスコミに売る、武装した犯人と単独交渉に応じる、取材に来た女性記者に対して「セクハラ」紛いの言葉を投げかける等々。しかし、最後はこれらが、「結果オーライ」で許されてしまう。ヘニング・マンケルの描くクルト・ヴァランダー、ヨー・ネスベーの描くハリー・ホーレ、そんな「はみ出し刑事」というパターンも、ここまで来るとちょっと類型化してきているような気がする。規則を全て守って事件を解決する、そんな刑事が新鮮だったりして。おそらく、近い将来、そんなパターンの警察小説が出てきそうな気がする。
(2013年8月)