6)六十八年世代の生き残りとして
若者の政治、社会への関心が最高潮に達したのが一九六八年。その世代の生き残りとしてのメッセージは何なのか。
記者:
あなたは典型的な六十八年世代です。家柄も良く、教育も受け、今日市民的なエリートの一員であり、六十八年世代の人間の典型的なテーマを扱っておられます。それにもかかわらず、自分の世代を「自己を律する、道徳化した」世代と名付けておられます。この差は何故ですか。シュリンクさん、あなたは他の人よりも上手くやったのでしょうか。
シュリンク:
いいえ。私が六十八年世代に完全には属していないだけです。その理由は、私にとって彼らの政治的な発言形式にあまりにも同調できなかったからです。デモへの参加、政治的なスローガンを一緒に叫ぶこと、六十八年当時ある種の流れだったことに、私は共感を持てませんでした。「自己を律する、道徳化する」という点に当てはまることを、私は一貫して自分と自分の世代に語り続け、非難のなかで自分と関係を付けたのです。多くの人々がいまだにこの姿勢を続けているのを見ることができます。私が考えつかないくらい徹底して。例えばヨシュカ・フィッシャーです。(訳注:「緑の党」の有力メンバー、社民党シュレーダー政権で外相)難しい政治的な決断を、自らの全ての政治的な懐疑を取り除くために、道徳的な議論へと高めることによって受け容れ可能な状態にする、そのようなことは私には無縁です。
記者:
六十八年世代のどのような道徳的な遺産を、どのような価値をあなたの孫の世代に伝えようとお考えですか。
シュリンク:
私たちの孫の世代は、私たちの子供の世代以上に六十八年からは遠く離れています。六十八年は、特殊な世代と考えられます。私たちは「西」と「東」の対立と関わり合い、何より、
「私たちが今生きているようにこのまま生きていて、本当によいのか。私たちはほかの生き方をするべきではないのか、資本主義よりは、ほんの少し社会主義的な。」
というような、他の可能性への絶え間ない疑問と関わっていました。二十世紀であっても、十九世紀であっても、また十八世紀であっても、社会的な、政治的な「もうひとつの可能性」についての問いかけは、繰り返し紛争を巻き起こすテーマとなってきました。しかし、現在の私たちの住む世界、グローバル化され、資本主義化され、多かれ少なかれ民主主義化され自由化された世界では、もう「もうひとつの可能性」などありません。現在私たちの世界と大きく異なるもの、例えばイスラム世界の社会的、政治的な関係は、私たちにとって進む可能性のある道ではありません。かつて六十八年世代が動かしたものが、もはや大切ではなくなるという予兆の下に次世代は育っていると見なければなりません。
記者:
しかし、六十八年はユートピアの世代でもあります。ユートピアを求めることは、どの時代においても若者にとって大変重要なことではありませんか。
シュリンク:
確かにそうです。しかし、六十八年世代にとってのユートピアとはマルクス主義的な伝統の上に成り立った社会の建設の少しはましな変形に過ぎません。この地平の向こうに自由なユートピアというのはありませんでした。今日、グローバル化に反対する人間がいます。しかし彼らは、自身の姿勢を社会や国家のモデルと結びつけることができないがゆえに、苦境に立っています。イスラムのテロリストの目指すユートピアもあります。世界が「清く」あり続けるということに対する憧れがそのユートピアを求める前提です。できればユートピアに対する憧れなどないほうがよいのです。