4)正しい言葉を見つけると言うことは
自分の言いたいことを的確に表現する「正しい言葉」はどのようにして見つければよいのだろうか。
記者:
お父さんのようにあなたも、しばしば何かに捕らわれているように見えます。真っ黒な服を着て、真剣そのもので、中を見通すような視線で。これはあなたの内面ですか、それとも外部への見せかけに過ぎませんか。
シュリンク:
その状況に現れたものと同時に本来の姿の反映ですね。私が真剣に受け取らざるを得ない質問をされた場合、私は非常に自分に集中しているように見えるでしょう。もし、質問なり、陳述なり、コミュニケーションなりにそれほど集中しなくてもいいようなときは、私は活発で明るく見えますよね。
記者:
それほど明るくない「オデッセー」があなたのこれまでで一番好きな本だということですね。その中に「罪人となるということは正しい言葉を見つけられないということ」とあります。どのようにして、正しい、正義の言葉を見つけるのに成功するのでしょう。
シュリンク:
個人的には、正しい言葉として捜しているものを、つまり他人に良く聞こえるものを、しばしば捕まえようとします。そして、自分の考えていることを過激すぎないで、向こう見ずすぎないで伝えることができるかどうか自問します。正しい言葉、それは偏見がなく、自然にリアクションとして口をついた言葉なのでしょうか。それは他人に今この時、また長い期間役に立つ言葉なのでしょうか。表現するのは難しいですね。正しいか、正当か、私がそれを見つけることに成功しているか、自分でも分かりません。法律の世界ではそれはもっと簡単です。そこにある問題を解決できるものが正しい言葉なのです。ただ刑法では無罪か有罪の問題がもっと重要ですけれど。ただ、そのようにして他人のなかに人生を見つけたくありません。だから法哲学者になったのです。
記者:
法哲学者、大学の教員、作家。それらの異なった分野の中で、罪や関与、法律や正義などをめぐるあなたの毎日の談話は、宗教的な信心深い人間の修練の場なのでしょうか。
シュリンク:
分かりません。ただ、自分が世界の道徳的な問題を十分に見ていることはわかります。そして、子供のとき以来両親の家と結びついた世界、父親よりもむしろ母親と強く結びついた世界について知ることであると言うことも分かります。なぜなら、母親が全ての状況、決断、行動、正義と不正義、有罪と無罪の範疇を決めていましたから。そのときから私の歴史はいつも道徳の歴史であり、それが罪に対する問いかけ、責任、正義と不正義を積み上げています。教会的と言うよりも、神との関係において私は信心深いのです。罪と許しの問題はしたがって私の場合、神ではなく人間の下においてのみ決断されるのです。
記者:
米国であなたの「朗読者」に関連して、児童虐待というテーマが論議されたとき、大変驚かれたそうですね。アデナウアー政権時代に登場する三十六歳の元強制収容所看守のハンナと、無邪気な十五歳の少年ミヒャエルの恋愛関係を全く邪悪な想像を許さないような導入部で描いておられます。しかし少年が突如女から去ったとき、彼は完全に混乱し、途方にくれます。状況も、感情もかれはコントロールできません。
シュリンク:
はい。しかし、それは歳の違いに特有なものだとは思いません。初恋は幸運であり、幸運のうちに終わることもあるし、劇的であり、劇的に終わることもあります。
記者:
三十六歳の女性と十五歳の少年の力関係に基本的に差はないとお考えなのですね。
シュリンク:
我々人間の恋愛関係は愛の理想的な形にはめったにならないと思うのです。歳の差があるにしろないにしろ、両者の間にちょうどギブ・アンド・テイクの均衡が生じるような関係は、現実にはめったにないと思います。
記者:
「朗読者」中の少年の考えで、それは振り返るり次のように述べられています。「どれほどの力が私の中にあるのか、いつの日かきれいな、賢い、考え深いく、驚くべき人間になるというどれほども保証が私の中にあるのか。」あなた自身にとって若いときこのような希望をどれほで信じておられましたか。
シュリンク:
スタンダールの「赤と黒」の中の主役ジュリアン・ソレルのように自分を信じていました。彼にとって自分の要求が失敗することは明白でした。しかし、それは問題ではなく、計算は問題ではなく、生きている感情が、感受が、確かな情緒の表現が問題だったのです。それで、その希望と期待でもって、私はかつて自分自身をはっきりと認識できたのです。