1)読者、批評家の意見に対して
記者はシュリンクに、否定的、挑戦的な批評を紹介することにより、シュリンクをややもすれば挑発しようとする。シュリンクは他人の批評は素直に受け止めると答える。
記者:
シュリンクさん、殆どの読者と批評家があなたの本をについて、どれほど自伝的なのか質問したがっています。これまであなたはいつも決定的な答えを避けてこられました。秘密として残しておきたいのでしょうか、それとも読者や批評家をわざと見当違いの方向へ導こうとしているのでしょうか。
シュリンク:
どちらでもありません。あるアイルランドの作家が私に、「どの本も自伝的になる」、と言ったことがあります。この言葉は真実を賢明な視点からうまく表現していると思います。例えば「朗読者」の中には、自伝的なもの、空想したもの、実際に見聞きしたものが、私自身個別に説明できないほど、説明する気にもならないほど、複雑に混ざり合っています。
法律家としては、法哲学者としては、何故そうなるのか、どうしてそうであるのか、もし分からなければ自分自身が不安になります。私は正確に知らなくてはおれないでしょう。そのため、方法や認識理論という問題に大いに興味を持つでしょう。
しかし小説家としてはそんなことに興味はありません。
記者:
小説の中で、あなたが登場人物を言わば創造主として操り、彼らを通じて読者に疑問や同様を呼び起こし、彼らの運命を弄ぶことは、あなたを興奮させますか。
シュリンク:
いいえ。と言うのも私は登場人物たちが成立する過程では全くと言って良いほどその運命を定めないからです。そうではなく、むしろ、私の物語の要素や登場人物の個性を色々と試し、あれこれと考え、呼び起こし、眠らせ、ジグゾーバズルのピースのように組み合わせていく、と言って良いでしょうか。最初から定められた運命の下で演じること、それは確かに組み立てや発明のひとつの在り方だと理解します。しかし、私はそのような仕事のやり方はしません。
記者:
ジグリット・レフラーはあなたの「朗読者」を、「およそ考えられる限り、最も錯綜した、最も変種の、最も複雑に構成された作品」と評しています。クラウス・ウルリヒ・ビーレフェルトはあなたを「自己を疑うこととは無縁な言語的な楽観主義者」だと呼んでいます。あなたを取り巻く賛辞の合唱の中にいて、あなたをこれらの批判に反駁しますか。
シュリンク:
いいえ。当時わたしは反駁しなかったと思います。
私の作品が出版される前にする最初の重要なチェックは、原稿を友人たちの間で回覧したり、息子に送って読んでもらったりすることです。それにより、「朗読者」が「最も錯綜した、最も変種の」のものであることを私は既に知っていましたから。
記者:
私は、あなたが「不愉快な批評には興味がない、わたしは反駁する」とおっしゃるものと思っていました。
シュリンク:
もし批評が神経に触るなら反駁もします。もちろん私は自分の本の至らない点も知っています。そしてもし批評を確かにそうだと自分で思えれば、それはそれで注目に値すると思います。しかし私の推測で完全に的外れだと思われる批評は、私は気にも留めません。
記者:
口の悪い人はあなたの文章を「法律家の散文」と表現しています。全てが緻密に熟考され分析されているものの、感情から離れた筋書き、単なる批評、あるいは心理学的な屁理屈。まるで人間の感情を拒否しているようだと。
シュリンク:
私は、作者がどのように物事を見、理解しなければいけないかを、余りにも強く主張され、それが表示されるような本に嫌悪を感じているからです。しかし、私は自分の文章の中で自分を隠したり、拒否したりはしません。ともかくそれは私の意図ではありません。作者から読者に全て可能な限りの解釈を与えてしまう方法とることは、読者に対して失礼だと思っています。