婆さん爺さん深夜のバトル

 

 木曜日、午後二時、ふたりの医師が、医学部の学生の女の子を連れて回診に来た。

「この不整脈の原因は何なの。精神的なものや、マラソンの練習が関係ある?」

と医者に聞いてみる。

「余り関係はないね。きみは単に運が悪かった、『バッドラック』だ。」

と極めて明快な回答。

 

午後六時半過ぎ、相変わらず少量の夕食の後、妻が見舞いに来てくれた。彼女の顔を見てほっとする。今週末、ドイツから我が家にホームステイするお姉ちゃんが到着する。しかし、私のこの状態ではスタンステッド空港まで迎えに行けそうにない。と言うことは・・・妻がスタンステッドまで、私の大切なBMWを独りで運転することになる。考えただけでも気が重い。けれど、こうなると妻に任すしかない。


 バーネット総合病院CDU病棟は奇妙な場所である。日中は静かなのに、夜になると騒がしくなる。木曜日の午後、私の斜め向かいに、ひとりの男性が運び込まれた。彼は足首から下が切断されていた。彼は一晩中、身体の痛みか、心の痛みか、うめき続けた。眠っている私の耳元に、彼のうめき声が響いていた。とても熟睡したと言える夜ではなかった。

二晩目、金曜日の夜は、最悪であった。壁を隔てた向こうの病室に、イタリア人の老女がいた。彼女は時々「マンマ・ミーア」(おやまあ、元々はイタリア語でお母さん)と叫ぶので、「マンマミーア婆様」と呼ばれていた。彼女は、その日退院できると聞いていて、実は出来なかったということである。夜十時、消灯にの時間なって、

「私のカバンは何処?カバンを返してよ!」

と大声で叫びだした。彼女の病室との間に壁があると言っても、入り口のナースセンターの所で壁が切れている。約十秒に一回間隔の彼女の叫び声が、こちらの病室にも響き渡る。

 壁のこちら側に、スティーブンスという名の老人がいた。その、爺様が、ご丁寧にも、マンマ・ミーア婆様の叫び声に応酬を始めたのである。

「シャラップ。静かにしろ。あんたのカバンなんか、もう誰かが捨てちまった。」

ふたりの老人の罵り合いが真夜中まで続いた。看護婦が何度かふたりを静めようとするが、ふたりともかなりボケが進行しているので、全然効き目がない。

 十二時半、こちらだって病気でしんどいのである。これ以上の寝不足は御免蒙りたい。私はナースセンターまで行き、看護婦たちに、

「こんな中で眠るのは不可能だ。ケア・マネージャーと相談して、あの老人たちを別の部屋に移してくれ。」

と交渉を始めた。しかし、看護婦たちは何も対処しようとしない。私は警察を呼ぶことさえ考えた。普通の住宅街で、深夜あれだけの騒音を出したら、確実に警察沙汰。結局、マンマ・ミーア婆様が疲れて眠りについた午前二時まで、私は眠ることができなかった。私は、この寝不足が、自分の病気に悪い影響を与えるのではないかと、真剣に危惧し始めた。

 

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