「幼虫」
原題:Gjenferd「幽霊」
ドイツ語題:Die Larve 「幼虫」
2011年
<はじめに>
はみ出し刑事ハリー・ホーレ・シリーズ。しかし、今回、ハリーはもう刑事ではない。「雪ダルマ」事件の後、警察を辞め、借金の取立て屋として、三年間香港で過ごしていた。ラーケルの息子のオレクが逮捕された知らせを聞き、彼はノルウェーに戻って来る。
<ストーリー>
グスト・ハンセンという名の若者がオスロで何者かに殺されるところから物語は始まる。
バンコクからの飛行機がオスロ空港に着く。パイロットが麻薬の入った鞄をコックピットに残し、機内清掃に来たロシア人、セルゲイがそれを持ち去る。その飛行機には、香港から三年ぶりにノルウェーに帰って来たハリー・ホーレが乗っていた。彼は前回の事件で、右手の中指を失っていた。
ハリーは、ラーケルの息子、オレクが、アパートを共有していた青年グストを殺した容疑で逮捕されたことを聞いて、香港から戻ってきたのであった。それを知らせたのはかつての同僚であるベアテ・レンであった。ハリーはかつての上司である、グナ・ハーゲンを訪ねる。グナは、かつての上司であったニコラス・ベルマンが、オスロでの麻薬犯罪を減少させることに成功し、昇進したことを伝える。オスロでは、多くの麻薬組織が警察の厳しい追及により撲滅された中で、「バイオリン」という新しい麻薬だけが生き残り、そのシェアを伸ばしていた。
ハリーはオレクと面会する。十八歳になったオレクは、見る影もないほど、やつれ、荒れた様子であった。オレクは何も話すことはないと言って早々に面会を打ち切る。ハリーがオレクの房を出た後、ハリーは入口に鍵の掛かっていないことに気付く。不思議に思ったハリーが慌ててオレクの房に戻ると、何者かがオレクにナイフ突き付けているところであった。オレクは難を逃れ、襲った男は逮捕される。
パイロットのトルン・シュルツは、出国の際、麻薬捜査官に止められる。彼のスーツケースの中から麻薬が発見され、彼は逮捕される。しかし、トゥルス・ベルントセンという警官の訪問の後、何故か釈放される。トゥルスは、
「自分も、同じ組織のために働いている。」
とだけ告げる。シュルツはその事件により、国際線のパイロットから国内線に回される。それにより麻薬の運び屋としての収入源を失った彼は、一切合財を警察に伝えようと、警察署のベルマンを訪れる。シュルツの話を聞いたベルマンは、その話を誰にも言わないようと告げる。
オレクと面会したものの、会話を拒否されたハリーは、オレクの部屋を訪れ、イングランドのサッカーチーム「アーセナル」のシャツを発見する。オレクがアーセナルの宿敵「トッテナム」のファンであることを知っていたハリーは、そのシャツが持つ意味を理解する。
殆どの麻薬密売組織が警察により摘発された後、「ドバイ」と呼ばれる男の組織が販売する、「バイオリン」という化学合成された麻薬のみが、警察の摘発を逃れて生き残っていた。その麻薬のディーラーが、ドバイに本拠のある「エミレーツ航空」の名前の入った、「アーセナル」のシャツを着ているため、そう呼ばれていたのだった。その組織の頂点に居る人物の正体は、誰にも知られていなかった。
ハリーはラーケルに会いに彼女の家に行く。そこにはハンス・クリスティアンという弁護士がいた。彼は、オレクの弁護をしていると言う。ハリーは嫉妬を感じる。間もなくラーケルが戻り、ふたりは三年ぶりに再会する。ラーケルは、オレクが家を出てから麻薬を覚え、金を得るために、家から装身具を持ち出していたことを告げる。
グスト・ハンセンの回想。オスロで共同生活を送っていたオレクとグスト、それとグストの義利の妹であるイレーネは、ある日、黒尽くめの格好をした男に呼び止められる。三人は、新しいタイプの麻薬のディーラーにならないかと持ちかけられる。彼らはそれを受け入れ、三人がチームを組んで麻薬を売り始める。「バイオリン」と呼ばれるその麻薬は飛ぶように売れる。
グストは、その組織のボスから、政治家のイザベル・スクイエンスに接近するように言われる。イザベルは野心家であった。見栄えの良いグストは、政治に興味のある青年を装ってイザベルに接近、彼らは肉体関係を持つようになる。グストは、
「庭をきれいにしたければ、雑草を刈り取るべき。」
つまり、まず、「ドバイ」以外の組織を撲滅することを、イザベルに提案する。イザベルもそれに同意する。そして、その後から、「ドバイ」以外の麻薬組織への警察の一斉検挙が始まる。
イレーネは最初グストの愛人であったが、その後、オレクと付き合い始める。「バイオリン」の供給が需要に追いつかなくなった頃、イプセンという男が彼らの前に現れる。その男は大量の「バイオリン」を製造できると言う。事実その男は大量のバイオリンを持ち込み、三人はそれを売りさばき、大金を得る。
オスロ組織犯罪撲滅チームの長であるベルマンは、部下のトゥルス・ベルントセンと話していた。同じ町の出身である彼らの間には、ベルマンがボスで、汚れた仕事にはベルントセンを使うという上下関係ができていた。ベルントセンはこれまで何度も、ベルマンの指示で非合法な事をやっていた。ハリーは、ひとりの捜査官、トルキルドセンを訪れる。彼は、ハリーに個人的な弱みを握られていた。ハリーは警察でしか得られない情報の提供者として、トルキルドセンをとことん利用することにする。
ハリーの宿泊するペンションに、カトーと言う名前のスウェーデン人の自称牧師が泊まっていた。彼は、オレクとグストを知っていると言う。カトーは、オスロの「裏の世界」に通じた人物だった。カトーは、このペンションに泊まっていた麻薬捜査をしていた覆面警察官が、あるとき突然行方不明になったと言う。
ハリーは、パイロット、トルン・シュルツが事件に絡んでいることを知る。ハリーがシュルツの部屋を訪れると、彼は殺されていた。ハリーは警察署のビジター用の名札を発見する。ハリーは、パイロットが警察署の誰を訪問したかを確かめようとするが、パイロットの訪問記録は、何者かによってコンピューターから消されていた。
オレクが突然釈放される。別の麻薬中毒の男が、グストの殺したことを自白したと言う。ハリーはそれを、罠であることを見抜く。釈放されたオレクの現れそうな場所を察知したハリーは、先回りしてオレクを保護する。オレクはハリーに、自分が一度「ドバイ」の家に連れて行かれたことがあると言う。目隠しをされていたため多くを知ることが出来なかったオレクだが、近くで音楽のライブコンサートをやっていたと言う。ハリーはその曲と、それを歌うバンドの名前から、「ドバイ」の家がどの辺りにあるのかを知る。ハリーはオレクの証言から、行方不明になっている覆面警察官がその際、オレクの目の前で殺されたことを知る。また、イレーネが行方不明になっていることも知る。
ハリーは、街に出て「アーセナル」のシャツを着ている男に、
「『バイオリン』を売ってくれ。」
と言う。ハリーはイレーネの写真を見せ、売人に会ったことがないかと訪ねる。売人は知らないと言う。ハリーは、
「ドバイによろしく。」
と言ってその場を立ち去る。
自分の買った「バイオリン」の粉末に、濃い色の粒が混ざっていることにハリーは気付く。グストの殺されたときの現場写真に写っていた「バイオリン」の粉は純白であった。彼は、ラジウム病院に働く知り合いの科学者ニーバックにその粉の分析を依頼する。その科学者は、部下に分析をさせた結果をハリーに伝えさせる。部下の男は、ハリーの持ち込んだ粉の組成が、オリジナルのものと微妙に違うこと、また濃い色の粉は、その病院で作られたものであることを告げる。
ハリーは警察組織犯罪部の長であるベルマンに、殺された覆面警察官の行方を知りたければ、ドバイの家を探すようにと言う。ベルマンはそれを判断するのはあくまで自分であるという。ハリーは、オレクの弁護士で、ラーケルの新しい恋人であるハンス・クリスティアン弁護士に、殺されたグストの墓を掘り返しにいくのに、一緒に来てくれるように頼む。ハンス・クリスティアンも渋々ながら、それに同意をする。
ハリーがペンションに戻ると、カトーが居た。カトーの誘いを断ったハリーだが、その日は禁を破って、近くのバーへ飲みに出かける。酒を飲み始めたハリーの背後から、ナイフを持った若い男が襲いかかる。「ドバイ」に派遣されたセルゲイであった。ハリーは、首と顎に怪我を負いながらもその攻撃をかわし、とっさにワイン抜きで逆襲し、その男を殺す。ハリーは急いでそのバーを立ち去る。
怪我を負いながらも、ハリーは深夜、ハンス・クリスティアンと一緒にグストの墓に向かう。墓を掘り返し、棺をこじ開け、グストの手の指を切り取ったハリーだが、警備員に見つかり逃げ出す。彼は一軒の家に侵入し、そこで傷の手当をしようとする。そのとき、その家の窓に、大量の銃弾が撃ち込まれる。ハリーはかろうじて脱出する。
レストランを経営する友人のところに逃げ込み、切り取ってきたグストの指の爪についている血液の鑑定をベアテに依頼する。数時間後、ベアテはその血液のDNA鑑定から、その血液が誰のものかを伝える。それは実に意外な人物のものであった。
<感想など>
ハリーが香港からノルウェーに戻るところから物語は始まる。前回の「雪ダルマ」から三年が経ったという設定になっている。前回の事件により、ハリーは指を一本失い、耳から口にかけて傷跡が残っている。彼がノルウェーを去ったのは、前回の事件が自分に与えたトラウマを癒すというよりも、自分が居ることにより、ラーケルに災いが及ぶのを避けたかったからである。ハリーは香港で借金の取立屋をやっている。大男で威圧感の塊のようなハリーには、お似合いの職業なのだろう。ハリーは昔の恋人のラーケルとは連絡を絶っていたが、同僚とは連絡をしていた。今回、ハリーがノルウェーに戻って来る決心をしたのも、ラーケルの息子が殺人容疑で逮捕されたという知らせを、かつての同僚のベアテから受け取ったためだった。息子のオレクは、十八歳になっていた・・・というのが、前回からのつなぎと、今回の導入部分である。
ネスベーのハリー・ホーレ・シリーズは、結構前回までの物語を引きずっている。その辺り、前回の事件のショックでうつ病になり、職場を離れて独りで黙々と海岸を歩いているというところから物語が始まる、ヴァランダー・シリーズと似ている。物語の主人公といえども、成長し、歳を取り、ストレスやショックで休養するというのが、今時のミステリーの主流なのである。一言でいうと、「悩める主人公」と言うのだろうか。このシリーズで、ひとつ後に書かれた「昏睡」は、この物語と殆ど同じ登場人物で、この物語の「続編」とも呼べるものである。
この物語、ふたつの「語り」からなる。ひとつは、「地の文」、もうひとつは殺されたグスト・ハンセンの「独白」である。ハリーが徐々に明らかにしていく事実を、もう一度グストの目から説明していく。都会の罠と、麻薬の罠に落ちた若者が、最後は死に至ると過程が述べられている。
このストーリーでよく使われる手法は、殺し屋に乗り込まれたりして絶体絶命になったハリーのシーンがそこで突然終り、次の章でまた普通に活動しているハリーに戻っているという手法。次の章を読んでいくうちに、読者には、ハリーがどのようにその「絶体絶命」の場面から脱出したかが分かってくる。その手法もたまには良いのだが、少々使いすぎのように感じた。最後は
「もったいぶるなよ。」
と言いたくなるくらい。
この物語、「指輪物語」と呼んでもよい。ハリーが蚤の市でラーケルに買った安物の指輪が、順々に色々な人の手に渡り、それが、最後には、犯人を特定する鍵になるからである。スウェーデン語のタイトルは「ゴースト、幽霊」、ドイツ語のタイトルは「幼虫」である。「幽霊」とは、決して姿を現さない「ドバイ」と呼ばれる人物のことであろう。また、幼虫とはまだ二十歳にも満たないオレクとグストのことを指すと考えられる。
ネスベーのこのシリーズ、最初の数冊を読んで、その後数年間読む気がしなかった。巨漢で、アル中であるハリーに、それほど感情移入をできなかった点が原因だと思う。しかし、その間に、「雪ダルマ」を始め、発表された作品が次々とベストセラーになり、ヘニング・マンケルやスティーグ・ラーソンに追いつけ追い越せの勢いになってきた。別にベストセラーになったから読むというわけではないが、再び読むようになった作家である。先程も書いたが、話が続いているので、作品を順に全て読んで、ようやくその本当の面白さが分かりかけてきた。
(2015年2月)