「密室」

原題:Det slutna rummet(閉ざされた部屋)

ドイツ語題:Verschlossen und verriegelt(閉じられ鍵をかけられて)

1972

 

<はじめに>

 

一言で言って、面白い。それに尽きる。他人に薦められる本である。この本を読んでいるとき、私はちょうどストックホルムにいた。時期も同じ六月。ストックホルム、クングスガタンのカフェでこの本を読んでいた私は、ガラス越しに、足早に通り過ぎるマルティン・ベックを見たような気がした。

 

<ストーリー>

 

 休暇の季節が始まった六月、ある金曜日の午後、若い女性が銀行に入って行く。彼女は行員にピストルを突きつけ、金を奪う。ひとりの男性客が、彼女を止めようとするが、その女性は男性客を射殺し、金を抱いて、人ごみの中へ消える。

 

 マルティン・ベックは、前回の事件で犯人に胸を撃たれて重症を負い、十五ヶ月に渡る療養生活を送っていた。傷が癒え、久しぶりに出勤したベックは、ある奇妙な事件を担当することになる。スヴェードという名の独り暮らしの老人が、アパートで死んでいるのが、死後二ヶ月近く経ってから発見された。彼はピストルで胸を撃たれていた。異臭がするという隣人の通報で、警官が駆けつけたとき、その部屋はドアも窓も内側から鍵をかけられていた。しかし、犯行に使われた武器は部屋に残されていなかった。つまり、それは完全な密室での殺人だったのである。ベックは男の死亡していた部屋を訪れ、担当した警官に会って話す。彼らの話を総合しても、確かにそこは密室であった。

 

 銀行強盗事件は、「ブルドーザー」の異名を取る検察官オルソンが担当することになる。グンヴァルト・ラルソン、コルベリ、レンと言ったいつものメンバーが、オルソンの率いる捜査班に配属された。オルソンは、その銀行強盗が、これまで何度も同じような事件の容疑者として浮かびながら、証拠不十分で起訴できなかった、マルムストレーム、モーレンの二人組みの仕業でないかと疑う。そして、ふたりの後ろには、企画を担当する、ヴェルナー・ロスがいた。ブルドーザー・オルソンは、航空会社のパーサーをやっているロスに任意出頭を求め、事件との関連について尋問をする。しかし、ロスは、マルムストレーム、モーレンとの関係を、もちろん否定する。

 マルムストレーム、モーレンはそのとき、ストックホルムに潜伏し、次の銀行襲撃の準備をしていた。彼らは、ドイツからふたりの助っ人を呼び、マウリゾンという男を使い走りに使っていた。

 そのマウリゾンは町で、ある偶然から警察に麻薬の所持を発見されてしまう。起訴を逃れるために、警察との取引を考えた彼は、ブルドザー・オルソンに対し、マルムストレームとモーレンの居所を教える代わりに、自分を放免してくれるよう持ちかける。オルソンはその申し出を承諾する。

 オルソンの部下たちがマルムストレームとモーレンの隠れ家を急襲するが、そこはもぬけのからであった。窮地に陥ったマウリゾンは、切り札として、自分が密かにコピーしていた、ロスからマルムストレームとモーレンに宛てた、銀行襲撃計画書を警察に差し出すことで、自分を釈放させることに成功する。オルソンは、銀行強盗を未然に知り、襲撃される予定の銀行で待ち伏せすることにより、マルムストレームとモーレンのふたりを逮捕できることを喜ぶ。

 

 一方、ベックの密室殺人事件の捜査は進展を見せない。殺されたスヴェードは、吝嗇で孤独な老人だったが、部屋には高価な鍵を二重につけていた。彼は誰かから逃げていたのか。そして、老人の銀行口座には、毎月定期的に多額の振込みがあった。

ベックは、老人の謎に迫るため、彼が訪れた病院と、彼の以前に住んでいた下宿を訪れる。そして、ベックはその下宿の女主人、レア・ニールセンと懇意になり、彼女と夜を過ごすことになる。

 

 釈放されたマウリゾンを個人的に居っていた、グンヴァルト・ラルソン刑事は、彼のアパートの地下室で、銀行強盗に使われたピストルと、そのとき女性が着ていたのと同じ服、カツラを発見する。銀行強盗は、女装したマウリゾンの仕業なのだろうか。

実は、マウリゾンの住まいには、彼自身も知らない、訪問者があった。

 

 銀行襲撃計画の当日が近づいてくる。オルソンとそのチームは、マルムストレーム、モーレン一味を一網打尽にすることができるのだろうか。

 同じ頃、マルティン・ベックも、新しい恋人、レア・ニールセンの何気ない言葉から、密室の謎を解く鍵を発見していた。

 

 

<感想など>

 

物語は六月。スウェーデンでは休暇の季節。警察署も半分の人間が休暇に出かけてしまい、人手不足に陥っている。日本では考えられないが、ヨーロッパでは、ごく日常的に起こりえる状況である。

 

この物語では三つのプロットが並行して進んでいく。

@       金曜日に起きた若い女性による銀行強盗、殺人事件の捜査、検察官オルソンの担当

A       その二ヶ月前に起きた、老人の密室殺人事件の捜査、これはベックの担当 

B       マルムストレーム、モーレンによる新たな銀行襲撃の準備

 

前作、「セフレから来た唾棄すべき男」の最後で、マルティン・ベックは犯人に胸を撃たれる。何とか一命は取りとめるが、その後、十五ヶ月に渡る療養生活を余儀なくされる。怪我が完治して、久しぶりに引き受けたのが、この密室殺人事件であった。彼自身は、同僚との会話の中で、その捜査を一種のリハビリとして捉えている。

「僕はこの事件を、リハビリの方法として引き受けたつもりだから。」(158ページ)

今回も、彼は常に落ち着いて、着実に捜査を進めていく。しかし、彼の心の中には、冷たい隙間風の吹く空間があった。彼は、捜査途中に出会ったレア・ニールセンと会うことで、その空間を埋めようとする。そして、何気ない彼女の一言から、密室殺人事件の鍵を見つけるのである。

レア・ニルセンと週末を過ごした後、彼は久しぶりに晴れ晴れとした気分で、口笛を吹きながら出勤する。

「彼は、スヴェードの密室を開けていることにより、自分の心の密室をも開くことに成功した。」(307ページ)

レア・ニールセンはベックの心の密室をも開けることに成功したのである。

 

 ブルドーザー・オルセンという男。警察官ではなく検察官である。何でもエネルギッシュに、強引なまでのやり方で、どんどんと片付けていくことから「ブルドーザー」との仇名が付いている。本名はステン・オルセン、しかし、誰も本名を知る人はいない。感情の起伏の激しい、留まることを知らない人物である。「動」彼が、「静」のベックと好対照をなして、描かれている。

 

 どの小説でもそうだが、「幸運なる偶然」によって物語が展開していく。今回、マウリゾンが道を渡る老女に仏心から手を貸し、それが原因で警察署に呼ばれ、たまたまそこにいた麻薬捜査犬に麻薬の所持を見破られてしまうのがまさにそれであろう。

「幸運なる偶然」を多用しすぎると、読者に非現実的な印象を与えてしまう。しかし、必然だけでは物語が進まない。この点、作者の少し自己弁護的な意見が述べられており、面白いので引用しておく。

 

幸運と不運はお互い打ち消しあう傾向にあることが知られている。ひとりの人間に対する幸運が別の人間の不幸になる。その逆ももちろん。

マウリゾンは両方とも信じない男であった。従って、自分の身を偶然に任せることもほとんどなかった。彼の計画は、彼なりに考えうる限りの安全装置により何重にも守られていた。そのやり方は、ほとんど考えられない不運な瞬間が重なり合わない限り、彼が事件に巻き込まれることがないことを保障していた。

仕事上での誤算はもちろん一定の間隔で襲ってきた。しかし、それは彼に経済的な損害を与えるに過ぎなかった。例えば数週間前、収賄に対してイタリア人にしては珍しく潔癖な警察の警部に、トラック一杯のポルノ雑誌を押収された。しかし、その積荷がマウリゾンまで遡って追求されることは不可能だった。(113ページ)

 

つまり、マウリゾンが十分に用心深い人間であり、それでも警察にとって「幸運な」、彼自身にとって「不運な」偶然が有り得るのだと、作者の解説が、ちょっと言い訳がましく書かれている。

 

 作者の国家権力、警察権力に対する反発がいたるところに表れている。

 

警察が、厳密に言うとその上層部にいる人間が求めているものは、とりもなおさず「権力」だ。ここ数年間、上層部の人間の行動を決める、密かな目的がその「権力」なのだ。かつては、警察がスウェーデンの政治に、孤高を保って存在していたがゆえに、新しい警察の行き先をどこに置けば良いのか、明確に分かっている人間は少ない。それゆえに、警察が近年発表したことの多くが、矛盾に満ちて捕らえにくいものになっていた。(156ページ)

 

作者は、警察の上層部の求めるものは「権力」であると、言い切っている。

 

 総合点をつけるならば、筋の展開、画面の転換、意外性、ユーモア、どれをとっても、なかなかのもの。第一級のミステリーと言うことで、「五つ星」をつけたい。

 

20057月)