「バルコニーの男」
原題:Mannen på
balkongen
ドイツ語題:Der Mann auf dem Balkon
1967年
<はじめに>
連続幼女殺人事件を扱っている。巧妙な犯罪であり、目撃者はいない。ふたりを除いて。そのふたりとは、路上強盗事件の犯人と、三歳の男の子であった。しかし、マルティン・ベックはそのふたりの証言から、犯人を手繰り寄せる糸を見つけ出そうと努力する。
<ストーリー>
一九六七年六月二日。ストックホルムの夏。暑い日が続いている。早朝からバルコニーにたたずむ男がいる。彼は何時間も飽きもせず、路上を行き交う自動車や、家から出入りする人々を眺めていた。
その頃、路上で通行人が襲われ、金や貴重品を強奪される事件が続いていた。警視に昇進したばかりのマルティン・ベックは、同僚のコルベリやラルソンの部屋を訪ね、これから出張でモタラへ行くと告げる。ラルソンは電話中で、ひとりの老女からかかってきた奇妙な通報の対応に忙しい。
六月九日の夕方。ヴァナディスルンゲン公園で、キオスクを経営する老女が襲われ、売り上げを強奪される。翌日、その現場から目と鼻の先で、九歳の少女が強姦され殺されているのが発見される。彼女が殺されたのは、前日老女が襲われたのと、ほぼ同じ時刻と推定された。
モタラから帰ったベックは、少女の殺人事件の捜査の指揮を執る。しかし、数日後、別の十歳の少女が、彼女の住むアパートのすぐ近くの公園で殺されているのが発見された。少女は殺される直前まで、一緒のアパートに住む子供たちと遊んでいた。殺された少女と最後まで一緒にいたのは、三歳の男の子であった。
ベックは、強盗犯人と幼女殺人犯人は別人であり、おそらく、第一の殺人事件の際、強盗犯人は、殺人犯人を目撃していると推測する。ベックは、部下のラルソンに、何としてでも、強盗犯人を捕らえるように命じる。
数日後、強盗犯人を知っていると言う、若い女性が警察に出頭する。彼女の情報で、ラルソンとその部下は、男のアパートを急襲する。ロルフ・エヴァート・ルンドグレンという若い男のアパートから、武器や盗品が発見される。彼が強盗犯人であるということは、疑いようがなかった。
ベックの推理は正しく、第一回目の殺人現場近くの藪の中で、獲物を物色していた強盗犯人ルンドグレンは、幼女殺人の犯人と思われる男を目撃していた。彼の証言により、モンタージュ写真が作成される。
また第二回目の殺人現場で、被害者の少女と最後まで一緒にいた三歳の男の子が、「おじさんに会って『ボン』を貰った」と証言した。『ボン』とは地下鉄の切符であった。その切符は、犯人は犯行現場に来るために使ったものと思われた。
しかし、これだけの証拠で、捜査を進展させることは極めて困難であった。犯人は、これまで、ごく普通の市民として生活し手着ていた人物が、何らかのきっかけで殺人鬼に変貌したと思われた。ストックホルムの市民は、子供たちを外で遊ばせるのをやめた。また、自分たちの子供たちを守る自衛団があちこちで結成され、その自衛団の過剰防衛も問題になってきた。
同僚ラルソンの行動の何かが、ベックの心に引っかかっていた。ある日、ベックはそれが、ベックがモタラへ出張する日、ラルソンが電話でしていた会話であることに気づく。ベックは、ラルソンの他、その場にいたメランダーとコルベリを集め、そのときの電話での会話の内容を再構築してみようと試みる。
<感想など>
この物語では、ベックは「コミッサー」警視に昇進している。これで、立場的には、ラルソンやコルベリの上司になったことになる。
ベックがラルソンの電話での会話の内容を思い出すことが、事件の解決のきっかけとなる。それは偶然と言えば偶然である。しかし、そこに至るまでの、試行錯誤は長い。証言を取ろうとして訪ねた家族が休暇で不在であったり、関係のあると思って尋ねた人物が数ヶ月前に死んでいたり、逮捕した人物が全くの別人であったり、エトセトラ。その、沢山の「無駄足」の末の「ラッキーな偶然」は、読んでいる人間に不自然に感じないから不思議である。
ここに推理小説の根本があると思う。都合の良い場面ばかり書き並べていると、ストーリーの展開は確かに速くなるが、小説全体が非現実的なものなってしまう。最近、ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」他の作品を読んで、特にそれを感じた。テンポは快い、現実感に欠けるのである。一見無駄に繰り返される「無駄足」「徒労」が、実はストーリーに、現実感を与えていることになる。
この物語の見所は、殺人事件の証人の設定であろう。
ひとりの証人はもうひとつの事件の犯人。ひとつの事件の犯人を捕まえることが、もうひとつの事件の証人を得ることになる。では、どうして、その犯人の協力を得られるのかと言う点で、コルベリは
「良心に訴えればいい。」
と冗談とも本気ともつかないことを言う。「強盗犯人の良心」、考えてみればおかしなシチュエーションである。
もうひとりの証人は、言葉もまともに話せない三歳の男の子である。ベックはその三歳の男の子の尋問に出かけるのであるが、彼が男の子を前に四苦八苦する姿は笑いを誘う。
心の痛むシーンは、コルベリが、最初の犠牲者の母親に、娘の死を伝えに行く場面である。このシリーズでも、マンケルの小説でも、肉親の死を伝える使者になることは、警察官にとって最も気持ちの重い職務であると言う。ましてや、母ひとり子ひとりの母親に対して、その一人娘の死を伝えるのは、考えただけでも気が滅入る。後年、コルベリは警察を辞める決心をするのだが、その決心の背景には、このような苦悩の繰り返しがあったからに違いない。
もうひとつ、心に残るシーン。出張でモタラに向かうベックはストックホルム中央駅で、ひとりの少女に出会う。彼女は、ベックに写真を買わないかと尋ねる。その写真とは、駅の構内にあるパスポート写真の自動撮影機で、スカートをたくし上げた自分の下半身を写したものであった。
ベックは、そのような少女がストックホルムに現れることにショックを受ける。しかし、この手のエピソードは、後年の作品でどんどんと増え、スウェーデン社会の閉塞感、退廃を伝える役目をするのである。
興味深いのは、普通の一見「善良な市民」に見える人物が、何かのきっかけで、凶悪犯人になりえるということである。犯罪心理学者の分析として最初に述べられた仮説が、最終的に真実となる。
それほど長くない小説、構成も緻密で、緊張感に貫かれており、それなりに楽しく読めた。
(2005年5月)