霜の降りる前に
ドイツ語題: Vor dem
Frost
原題:Innan frosten
2002 年
<はじめに>
クルト・ヴァランダーのひとり娘、リンダ・ヴァランダーが主人公として活躍する物語である。これが、単発なのか、今後シリーズになるのかどうかは分からない。
リンダは警察官になる決心を第八作「防火壁」の最後で父に告げる。その後、彼女はストックホルムで警察学校に入り、無事そこを修了し、父と同じイスタド警察署への配属が決まる。そこで仕事を始める前の数週間に起こった出来事、というのがこの物語の設定である。ちなみに彼女は二十九歳。もう決して若いとは言えない年齢である。
リンダは数週間後には正式な警察官になるとはいうものの、まだ警察官ではないという、微妙な立場である。マンケルはリンダが「見えない制服を着ている」とその微妙な立場を表現している。
登場人物。シュテファン・リントマンが他の警察署から移ってきた以外は、アン・ブリット、マルティンソン、ニュベルク、リザといういつもの面々が活躍する。(シュテファン・リントマンは「帰ってきたダンス教師」にも登場している。)
クルトとリンダは、同じ職場で父親が上司という、お互いやりにくい立場で、対立を繰り返しながら、困難な事件に立ち向かっていく。
<ストーリー>
プロローグの舞台は、いつものように、時間的にも空間的にも遠く離れている。
一九七八年のアフリカ、ガイアナ。カリフォルニアから移住し、集団生活を営むカルトの一団がある。その首領ジム・ジョーンズはある日、信徒全員に集団自殺を強要し、それに同意しない信徒たちを皆殺しにする。全員が死亡したと思われる中で、ひとりの男が脱出に成功していた。
第一部:
二〇〇一年八月二十一日の夜、スウェーデン、イスタドの近くの海岸で、白鳥にガソリンをかけて火をつける男。火をつけられた白鳥は火だるまとなって飛び上がり水面に落ちる。男は、自ら警察に通報する。
リンダ・ヴァランダーは警察学校を終え、父、クルトの働くイスタド警察署に配属される。正式の勤務は九月八日から。ストックホルムから戻ったリンダは、父と一緒のアパートに住んでいるが、暇を持て余している。彼女は、高校時代の友人たちと出会い、その中でも特に仲の良かったふたり、ツェブラとアンナと再び交際を始める。
ある日、アパートを訪れたリンダに、アンナは奇妙な話をする。
アンナが前日、マルメーにあるホテルのロビーでお茶を飲んでいたとき、窓越しにひとりの男が目に入る。アンナはその男を見つめ、その男もアンナのことを見つめ返した。そして、アンナはその男が、二十四年前、母と自分を捨てて失踪した、父親、エリック・ヴェスティンであると確信していた。
リンダは半信半疑で話を聞き、翌日もアンナと会う約束をして別れる。しかし、翌日、アンナのアパートを訪れたところ、アンナは消えていた。リンダは数日間、アンナを待つが、彼女は現れない。心配になったリンダは、警視である父親に相談する。父は取り合わない。リンダは独自にアンナの捜索を始める。
イスタドの近くで、今度は、牛にガソリンをかけ焼き殺すという事件が発生。白鳥に続き、動物をサディスティックに殺害する事件が続く。
中世に使われた「踏み分け道」を研究するビルギッタ・メドベルク。彼女はある日、森の中に使われていない小道を見つける。その道を辿っていくと、谷に行き当たり、そこに一軒の小屋が建っていた。彼女はその小屋の中を覗き見る。そこには開かれた聖書があった。そのとき、小屋の中にその住人が戻ってくる。ビルギッタはその男により殺される。
第二部:
リンダは、アンナの行先を知るために、アンナの母、ヘンリエッタを訪れる。ヘンリエッタはアンナが父親を見つけたという妄想に陥るのはいつものことで、娘のことは心配しなくて良いとリンダに答える。リンダはヘンリエッタが何かを隠していることを直感する。リンダは深夜再びヘンリエッタの家に向かう。そして、ヘンリエッタと話す男の後姿を見る。
殺されたビルギッタ・メドベルクの死体が小屋で発見される。しかし、胴体は消え、彼女の頭部と両腕だけが残されていた。手は祈るときにするように組まれていた。死体の傍には、聖書が残されていた。そして、その中のヨハネの黙示録の一部が手で書き換えられていた。
ここで、ガイアナで起こったカルトの集団自殺事件のたったひとりの生存者のその後が明らかになる。その生存者は、二十四年前に失踪したアンナの父親であった。彼は、ガイアナから米国に入る。そこで、かつて自分が属したカルトの首謀者、ジム・ジョーンズの研究者である女性スー・メアリーと知り合う。彼はスーのアシスタント兼実質的な夫として、クリーブランドで二十年間を過ごす。そして、スーの死後、彼は故郷とスウェーデンに戻っていた。
アンナの行方を追うリンダは、アンナの部屋の中で、町外れの教会の裏にある建物へ行く地図を発見する。リンダがその建物を訪れると、中では、数十人の男女が暮らしていた。その建物の外で、リンダはひとりの男の姿を見る。リンダはその男がアンナの父親ではないかと疑う。
翌日その建物をリンダが再び訪れると、もぬけの殻であった。リンダはその建物を仲介した不動産屋を訪れ、トルゲイル・ランガスという名のノルウェー人がその建物を所有していることを知る。その男の住所はコペンハーゲンになっていた。リンダはその住所を訪れるが、目的の男はそこに住んでいない。帰ろうとするリンダを何者かが襲う。リンダは、「トルゲイル・ランガスの身元を探るのを止めろ」と男に脅迫され、殴り倒される。リンダはデンマークに警察に救助され、父親とシュテファン・リントマンにより、スウェーデン連れ戻される。
リンダはアンナの日記の中にヴィグステンという名前を見つけ、その名前がコペンハーゲンの例の住所にあったことを思い出す。リンダは再びコペンハーゲンに向かい、ヴィグステンを訪れる。ヴィグステンは元音楽家のかなりボケの進んだ老人であった。リンダはそのヴィグステン老人の家に、もうひとりの住人がいること察知する。
イスタドの街で、ペットショップが放火され、中にいた動物たちが焼け死ぬ。犯人らしき男が目撃される。その男は火を放ったあと、「神の思し召し」とノルウェー訛りで叫んでいた。
第三部:
エリック・ヴェスティンの回想。
ガイアナの殺戮から逃れ、クリーブランドで暮らすようになったエリックは、町のスラムで、酒に溺れ身を持ち崩していたノルウェー人、トルゲイル・ランガスに出会う。エリックはトルゲイルを更生させ、自分の開いたセクトの一番弟子にする。トルゲイル・ランガスが道に迷ったビルギッタ・メドベルクを殺したこと、エリックとトルゲイルが共謀して、ペットショップに放火したことなどが、エリックの回想で明らかになる。
リンダが父といさかいを起こし、アンナのアパートに逃げ込む。そこにはアンナが帰っていた。アンナは、マルメーの街で見つけた父親を探すために家を空けていたこと。結局父親は見つからず、あきらめて帰ってきたことを話す。しかし、リンダはアンナの話が真実でないと直感する。
クルト・ヴァランダーは動物の生贄、残された聖書などから、事件に宗教的なものを感じる。
アンナの父親、エリック・ヴェスティンが密かにスウェーデンに戻ってきた目的は何なのか。それが次第に明らかになる。そして、これまでの事件は、もっと大きな計画の序曲にすぎないことも。
<感想など>
父と娘はやはり似ていた。
父のクルト・ヴァランダーも、「捜査中はひとりで行動してはいけない」という警察の鉄則を無視して、しばしば単独行動を取る。その結果窮地に陥ることもあるし、また、その結果犯人に肉薄できることもある。クルトは、捜査班にチームワークを要求するものの、基本的には一匹狼なのだ。
リンダも同じである。今回も、親友のアンナの跡を、父親の助言を無視して、単独で追いかける。その結果窮地に陥ることも、その結果犯人に肉薄することも、全く父親と同じである。
父と娘は同じ職場では上手く行かない。
私事になるが、ピアノの教師をしている筆者の妻が、一時期自分の子供にピアノたちを教えようとした。結果は最悪。子供は泣き出すし、妻は怒り出すし。それで、うちの子供たちは、今、別のピアノの先生についている。つまり、公私の「交」の場で、親子関係は基本的に悪い方にしか働かないである。肉親に対しては、他人には普通に働く、忍耐力、自制心がうまく機能しないである。
リンダはしばしば父親と対立する。一度などは、家を飛び出して、もう帰らないことを誓う。そのときリンダは親友のアンナのアパートを訪ねこう言う。
「父と私は糞の山の上で戦っている二匹の鶏のようなもの。」(314ページ)
過去に起こった出来事が、リンダの目から違う角度から改めて語られるのが面白い。
クルトと妻のモナの不和、リンダの自殺未遂など、これまでのシリーズで父、クルトの視点で語られていた。今回、娘、リンダは改めてその出来事を語る。
リンダは十代のとき、飛び降りて死のうと思い、高速道路に架かる橋の欄干に立つ。そのとき、若い女性警官の説得により、自殺を思いとどまる。リンダが警察官を志した理由のひとつがその事件であることも分かる。
ひとりの人間に対する評価が、父と娘で完全に異なっているのも面白い。その良い例がアン・ブリット・ヘグルントである。アン・ブリットはこれまでクルトの視線から、容姿もよく、聡明で、クルトの一番の相談相手として肯定的に描かれていた。しかし、リンダの目には、「太り始めた、意地の悪い、中年のおばさん」としてしか映っていない。
日本でも問題になった過激なカルトをテーマにしている。コンピューター犯罪を取り扱った「防火壁」、人種差別問題を取り扱った「白い雌ライオン」、東西の壁の崩壊を取り扱った「リガの犬たち」などに続き、そのときの社会の問題を主題にしている。そう言う意味では、マンケルの本領発揮という作品である。
リンダはシュテファン・リントマンに好意を抱く。捜査中に彼と一緒に車に乗っているとき、そのままホテルに入り、彼と寝ることを妄想するほどに。もし、このシリーズの続編が書かれたら、そのときはリンダとシュテファンは同棲しているか、結婚していると思う。
読んでいて少しショックだったシーンは、リンダが母親のモナを訪れた際、モナが素っ裸で、昼間からウォッカをビンごとがぶ飲みしているところである。これまで、モナは常に気持ちの上では、元夫のクルトより優位に立っていたのに。ここへきて、離婚による敗者と勝者の関係が、逆転するのであろうか。
リンダの隠れた才能も面白い。ふたつの殆ど同じ絵を比べて、一瞬にしてその違いを見抜くこと。それて声帯模写。この才能が、今回は事件の解決にわずかながら役にたつのである。
「霜の降りる前に」というタイトルについて。
「霜が降りる」ということは、リンダにとって何を意味するのであろうか。
「もうすぐ秋だ、とリンダは思った。現在、私の人生の前には、目前に差し迫ったたくさんの出来事が待っている。その中でも急を要して大切なもの、それは、五日後にこれまでの見えない制服を本当の制服に着替えること。そしてアパート。そうしたら父と私はもうお互いにいらいらしなくてすむ。もうすぐ秋だ。もうすぐ初めて霜の降りる朝を迎える。」(323ページ)
初めて霜の降りる秋の日、それは、リンダが警察官として、新たな人生を歩み出す、スタートの日なのである。
(2004年11月)