ジークフリート・レンツ
「流れの中の男」
Der Mann im
Strom
1957年
<はじめに>
久しぶりにミステリーではなくドイツ語の純文学を読む。このジークフリート・レンツとは縁が深い。筆者は、彼の短編集「嘲笑の猟師」(Jäger
des Spotts 1958年)を、今を去ること三十年前、大学の卒業論文のテーマに選んだ。気に入った理由は簡単。文章が平易で速く読める。政治的な色合いがなく、ノンポリ学生だった筆者にも扱い易い。それくらいのものだった。(レンツと同世代の作家は皆、かなり政治色が強かった。)
今回また読んでみて改めて驚く。純文学の作品でこれほど読み易いとは。それと、変に教訓めいたところがないのも好感が持てる。
大きな河の流れる港町が舞台。ハンブルクだろう。筆者は最近何度も仕事で訪れている同じように大きな港町、ロッテルダムの景色を思い浮かべながらこの物語を読んだ。
<ストーリー>
男、ヒンリクスは永年潜水夫として身を立ててきた。老年に手の届く彼は現在失業中。大きな河の流れる港町の、渡し舟の乗り場から程近い砂丘の上に、娘のレーナ、息子のティムと一緒に住んでいる。
息子のティムは、ある夜職探しから帰ってきた父親が、潜水夫の免許証の生年月日の部分を剃刀で削り、書き換えているのを目撃する。歳を取った自分を今ではどの会社も雇ってくれない、生年月日を改ざんすることが、残された唯一の手段だと、ヒンリクスは息子に言い訳をする。
彼はその改ざんした免許証を持参し、翌日やっと仕事にありつくことができる。彼を雇った会社は、港内で沈没した船を引き上げ、それを解体する作業を請け負っていた。ランチに乗り現場へ到着したヒンリクスは、沈船の調査のために水に潜る。しかし、間もなく気分が悪くなり、彼はランチの甲板に引き上げられる。ランチの操舵士である大男のクドルは、気分の優れないヒンリクスを家まで送り届ける。ヒンリクスはクドルに礼を述べ、一緒に夕食を食べて行くようにと勧める。
ヒンリクスとクドルが家に戻ると、マンフレッドという若い男が家の中おり、娘のレーナと話していた。マンフレッドは潜水夫を志し、かつてはヒンリクスに弟子入りしたが、途中でヒンリクスの元を飛び出していた。マンフレッドは一度娘のレーナに言い寄り、レーナも彼に好意を持っていたが、ヒンリクスがふたりの交際に反対したのが原因だった。ヒンリクスはマンフレッドに向かって出て行けと叫ぶ。マンフレッドは出て行く。マンフレッドがフェリーに乗ったとき、レーナが家を飛び出しマンフレッドの後を追い、フェリーに飛び乗る。レーナはその夜家に戻っては来なかった。
家を飛び出したレーナとマンフレッドには寝る場所さえない。ふたりは河を見下ろす丘の上に立つ、ビスマルクの銅像の下の空間で、浮浪者たちと一緒に夜を明かす。明け方になってマンフレッドは、彼を呼びに来た若者と一緒にその地下室を出て行く。
仕事に出たヒンリクスに彼の上司は、スウェーデンでの契約が入ってきたために、そこへ行ってくれるように依頼する。ヒンリクスは、それに応じるが、その手続きのために、潜水夫免許証だけではなく、生年月日の書かれた全ての書類を改ざんする破目になってしまう。
数日後、クドルがヒンリクスに、マンフレッドをビスマルク銅像の下で見かけたと告げる。仕事が終わった後、ヒンリクスとクドルはマンフレッドとレーナを見つけるために銅像の下で落ち合う約束をする。一足先に着いたヒンリクスの前にマンフレッドとその仲間が現れる。娘を返せと叫ぶヒンリクスを、マンフレッドの仲間が叩きのめす。地面に倒れているヒンリクスを後から現れたクドルが発見、また彼を家まで送って行く。
更に数日後、クドルは街でレーナを見つけ、後をつける。運河の端まで来て、水中に身を投げたレーナをクドルは飛び込んで助け、自分と両親の家に連れ帰る。レーナは何があったのかという問いに対し、一言も口をきかない。
翌朝ヒンリクスが仕事に出ると、何とマンフレッドがクドルの助手として働いていた。その日の夕方、クドルはヒンリクスを自分の家に連れ帰る。レーナを父親と一緒に家に戻らせるためだ。クドルが二階でレーナに家に戻るよう説得をしている間、ヒンリクスはクドルの父親から、クドルの過去についての話を聞く。クドルは戦争が終わった直後、仲間の犯した窃盗の罪を独りで被り、刑務所に入った。そして、出所した後も、損害賠償のために長い間身を粉にして働いてきたというのだ。自分に罪を被せ、見殺しにした仲間を恨むことがないかのように。
レーナはクドルの説得に応じ、父親と一緒に家に帰ることを承諾する。帰り道、遊園地で遊具に乗り、レーナはやっと明るさを取り戻す。
クドルとヒンリクスが勤める会社の倉庫から、夜間に資材が盗まれるという事件が度々起こった。ある霧の深い夜、クドルとヒンリクスのふたりが倉庫の警備に当たっていた。そこへ窃盗団と思われる若者が現れる。クドルとヒンリクスはそのうちのふたりを捕らえることに成功する。捕らえられた若者のひとりはマンフレッドであった。
ふたりは捕らえた若者を警察に突き出すためにランチに乗せる。しかし、深い霧の中、流れを横切る最中に、古いランチのエンジンが故障してしまう。立ち往生したランチは大型船に衝突され沈没する。クドルとヒンリクスともうひとりの若者は助け揚げられるが、マンフレッドは見つからない。ヒンリクスは沈没したランチを捜索するために暗い水に飛び込む・・・
<感想など>
この物語のテーマはふたつ、「老い」と「家族」であると思う。老いを感じる年齢になったヒンリクスだが、彼はまだまだ家族のために働かねばならない。彼は、そのために書類や免許証の改ざんを始める。彼にはそれが悪いという意識はない。生きるために必要なことなのだ。戦後間もない、皆がまず生きることに一生懸命の時代。モラルは腹が膨れて初めて機能するのだ。
ヒンリクスはありとあらゆる手段を講じて(ときにはそれが非合法であっても)家族を守ろうとする。息子のティムは毎晩砂丘の上から近づいてくるフェリーを眺めて父親の帰りを待つ。一度家を出たレーナも結局は父と弟の待つ家に戻る。貧しいが、貧しいからこそ、密接な家族の繋がりというものが伝わってくるエピソードが添えられている。
深夜、書類を改ざんしているところを息子に見られたヒンリクスはこう答える。
「書類の書き換えは重大なことだ。しかし、俺がそれをやっても世間の誰にも迷惑をかけることはない。誰も傷つく人間はいない、そしてどんなことかは分かっている。世の中にはもっと悪いことがいっぱいある。皆他のことに精一杯で誰も気づかない。」
彼は、息子に対してこう自己弁護をし、ティムもそれを納得している。
ヒンリクスは潜水夫であるが、当時の潜水夫としての仕事の多くは、戦時中に沈められた船を引き上げることのようだ。しかし、絶えず水圧に揉まれる潜水夫という仕事は、永年やっていると、次第に体が蝕まれていく、まさに「身を削る」仕事であるようだ。ヒンリクスが採用されたのも、彼の前任者である年配の潜水夫が職務に耐えかねて死亡したからだ。ヒンリクスはその危険を承知の上で、家族のために潜り続ける。
クドルという男、一見とっつきにくい大男だが、どこまでも好人物として描かれている。無理して潜り気分の悪くなったヒンリクスを助け、レーナを自殺から救い、再び父と娘の仲を取り持ち、資材泥棒が現れたときには、その怪力で彼らを捕まえる。それでいて、彼は働き者で、社長や同僚からの信頼も厚い。ちょっと現実離れした人物だが、彼の存在のお陰で、暗い物語に明るい日差しが差し込んでいる。
とにかく、終戦直後、皆が生きることに精一杯だった時分の物語。全てが単純明快だったころの物語だという印象を受けた。
(2009年7月)