ロジャー・クレメンスとリクライニングシート
ドジャースタジアムに掛かる巨大な野茂選手の写真
二〇〇四年六月二十三日、午後十一時、僕はロンドン・ヒースロー空港から機上の人となった。「機上の人」なんて言葉を使うと、何となく緊張感を漂わせて飛行機に乗ったような印象を与えてしまうかも知れない。実は前夜遅く一泊のオランダ出張から戻ったばっかり。これで、三日連続の飛行機の旅。最近は海外出張の連続で、六月に入ってから飛行機に乗るのはもう十回目くらい。と言うわけで、もう緊張感も何もあったものではなく、僕は何となくロサンゼルス行きのアメリカン航空一三七便に乗り込んだのであった。
今回は、出張ではなく休暇である。今年も、大リーグの試合を見に行くんだもん。昨年は、シカゴの友人の家に居候をしながら、シカゴとミルウォーキーで三試合を観戦。今年も、経費節減のため、高校の同級生、Y子さんの住むロサンゼルスに狙いを定め、彼女の家に居候をしながら、ドジャースの試合を見にいく予定になっていた。居候人生、三杯目はそっと出さなくちゃね。
ロンドンからロサンゼルスへは十一時間の旅。飛行機は八分の入りという感じ。中央の五人掛けのシートに三人が座るといった具合。圧迫感がなく、気分的には随分楽。周りに座っているのはアメリカ人のグループ。陽気なのですぐ分かる。
隣の席には髭を生やした四十代半ばのアメリカ人の巨大なおっちゃんが座ってきた。昨年までNYヤンキースにいて、引退するといいながら今年も頑張っているピッチャーのロジャー・クレメンスに顔が似ている。しかし、腹の周りはゆうに一メートルはある。彼のグループは、歌手、ナンシー・シナトラのバックのバンドの人たちで、チューリッヒとロンドンで公演があり、その帰りだという。トレーニング不足のロジャー・クレメンスと言った感じのその男、ドンは、バンドの「ミキサー」。ジュースを作るのではなく、色々なマイクロフォンから来る音を、調整する仕事らしい。
「ナンシーもこの飛行機に乗ってるの。」
と聞くと、彼女はインタビューがあるので、数日間ロンドンに残るのだと彼は答えた。
突然ドンが僕に「ハングマン」を知ってるかと聞いてきた。「ハングマン」というのは、言葉当てゲームで、僕は娘と何度かしたことがあった。それから、数時間、僕はドンと、「ハングマン」、「五目並べ」なんてゲームを延々とやった。面白かったけれど、四十を過ぎた男がふたりでキャッキャッ言ってやることじゃないような気がする。
そのうち、ふたりともゲームに疲れ、しばらく眠ることにした。ドンがリクライニングシートを後ろに倒した。最近ファーストクラスやビジネスクラスのシートはほぼ平らになるくらい倒れると言う話だが、エコノミークラスの椅子はそんなに倒れない。僕も、背もたれを後ろに倒そうとした。ところが、ドンのシートほど倒れない。その差は十センチ。何度もやってみたが、どうしても僕の椅子の背もたれは、ドンの椅子ほど倒れない。最後に僕は気が付いた。彼は、自分の体重で、背もたれをあと十センチ、無理やりに倒していたのであった。「参った」と僕は呟いた。