地震

 

 昨年十月に一時帰国したときは中越地震の直後。川が土砂崩れで堰き止められ、村がだんだんと水没している様子が毎日テレビで伝えられていた。毎日同じ家が画面に写し出され、水の上に出ている部分がどんどん少なくなるのが不気味だった。しかし、僕は何となく他人事と言う感じでそれを見ていた。十二月のスマトラ沖地震による津波の画像も同じ。他人事。自分が巻き込まれる確率はそれほど高くないだろうと、僕は思っていた。

 日本に着いて三日目、三月二十日の朝、僕は京都から、二年ほど会っていない姉夫婦を訪ねるため、福岡に向かった。新大阪から博多行きの「ひかりレールスター」に乗る。午後一時半には博多に着く予定であった。

 僕の乗った列車は岡山駅で停まったきり発車しない。間もなく、車掌から「福岡県で地震が発生したため、送電が止まり、広島と博多の間が不通になっております」とのアナウンス。日本では極端な話、毎日大なり小なりどこかで地震が起きているのだし、僕は最初事態をそれほど真剣に受け止めなかった。放送が日本語だけだったので、近くにいた外人に英語で事情を説明した。その後、電話のある車両へ行き、福岡に電話を入れる。地震があったらしいから、今新幹線が止まっていると伝える。電話を取った義兄の声の、何かしら逼迫した響きから、その時、事の重大さに気づくべきだったのだが。

 列車は間もなく動き出し、不通区間も徐々に短くなっていく。途中の駅で五分、十分と停まりながらも、列車は山口県内までやって来た。九州は目前。しかし、そこで列車はピタリと停まってしまった。小倉、博多間が復旧しないのだ。駅で停まっているわけでないので、戻ることもできない。いずれにせよ、博多から列車が来ないことには戻れないのだが。車内の電光掲示板に「福岡県と佐賀県で震度六弱」が流れ、「ええっ、そんな大きかったの」と驚く。待つこと三時間。午後五時過ぎ、「小倉、博多間が開通しました」と言うアナウンスの後、列車はゆっくりと動き出した。車内に安堵の色が広がる。小倉駅で「のぞみ」に抜かれる。おい、こんな時にまで「のぞみ」を優先させるなよ、JR。

遅れること四時間余、列車はようやく六時過ぎに博多駅に着いた。ホームから階段を降りると、何百人もの列。特急券の払い戻しを求める人たちの列であることに気づく。博多駅からの交通を心配していたが、幸い地下鉄は動き始めていた。天神の地下街は店が全て閉まり、ガランとしている。地上に上がると、地震の爪跡はどこにもないように見えた。

姉の家に着き、大丈夫だったかと聞く。台所の戸棚から茶碗が飛び出し、床が一面割れた茶碗やコップだらけになったそうだ。テレビをつけると、家が倒壊した島の様子が写し出されていた。テレビは被害の大きい所しか写さないので、テレビだけ見ていると、どこもすごい被害のように見えてくる。京都や金沢の父母から、大丈夫だったかと電話が入る。義兄は外出中だったので、姉とふたりで夕食を始めた。食べ初めてすぐにグラッときた。余震だ。「今の、震度三くらいかな」とふたりで言い合う。それからも、三十分に一度くらい余震があり、久々の再会を祝う食事は、随分落ち着かないものになってしまった。

 

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