「連闘」

原題:Bolt「くさび」

ドイツ語題:Festgenagelt 「釘付け」

1986

 

 

<はじめに>

 

ディック・フランシスの魅力について、ひとりの友人は「主人公が成長する小説であること」だと述べた。初めて読んだときから、感じてはいたが、表現できなかったことが、その一言で要約されたような気がした。正に、フランシスの主人公は成長する。金儲けの対象としか馬を捕らえていなかった馬主が馬への愛に目覚め、サラブレッドの仲買人が飼育者の苦労を学ぶ。今回の主人公、キット・フィールディングがどのように成長していくか楽しみだ。

 

<ストーリー>

 

 キット・フィールディングは障害レースの花形ジョッキー。彼はアメリカ人の女性、ダニエレ・デュ・ブレスコウと婚約している。ダニエレの叔父ローランドは実業家、彼の妻は欧州の某国の元王女、プリンセス・カサリア。ローランド、カサリア夫妻は長く英国に住み、カサリアは多数の競走馬を所有している。キットは主にカサリアの持ち馬に騎乗していた。

 キットの家系は、代々アラーデック家と敵対関係にあった。(「ロミオとジュリエット」のモンターギュ家とキャピレット家のような宿敵。)しかし、その敵対関係にも、キットの世代で終止符が打たれたかのように思われた。キットの双子の妹ホリーと、アラーデックの嫡男ボビーが結婚したのである。しかしながら、アラーデックの当主メイナルドだけは、依然として過去の敵対感情を抱き続け、フィールディング家の跡継ぎキットに対して、憎悪の感情を隠そうとはしなかった。

 婚約中のキットではあるが、心中は穏やかならざるものがあった。婚約者のダニエレが、最近別の男に心を奪われ始めたのである。しかも相手の男は欧州の某国の王子。「プリンス・リスティ」という名前だけで、キットが気後れしてしまう相手であった。

 

 二月のある日、ロンドン郊外のニューブリー競馬場。騎乗が終わったキットは、プリンセス・カサリアが、彼女の馬の応援のためにスタンドに姿を見せなかったことを訝しく思い、彼女のロッジ(専用貴賓席)を訪れる。カサリアは、そこでひとりの男と話し込んでいた。

 その男との会談を終えてキットの前に姿を現したカサリアは、非常に大きなショックを受けているようだった。彼女はキットに、ロンドンまで自分の車(ロールスロイス!)に一緒に乗ってくれるように頼む。キットはカサリアと一緒に、ロンドン、イートン街の彼女の屋敷に向かう。

 彼女の屋敷で、キットは彼女の夫、実業家のローランド・デュ・ブレスコウの部屋に呼ばれる。そこには、カサリアと、ローランドの弁護士も一緒だった。 

 カサリアが競馬場の貴賓室で話していた人物は、アンリ・ナンテールというフランス人だと言う。ローランドは、フランスでパートナーとふたり会社を興した。しかし、最近そのパートナーが死に、その息子、アンリ・ナンテールが新たに会社の共同経営者となった。若いナンテールは、自らの会社で武器を作ることにより、経営を多角化し、利益を得ようとしていた。そして、ナンテールは、武器製造のライセンス申請書類に、共同経営者であるローランドのサイン必要としていた。そのために、彼は競馬場でカサリアに会い、半ば脅迫に近い形で、夫へ書類サインをするように働きかけることを要求していたのだ。「サインをしないと、家族の誰かが『事故』に遭うことになる」と。

 ローランド・デュ・ブレスコウは病を得て、身体の自由を欠いてはいたが、倫理観に貫かれた人物だった。彼は、自分の目の黒いうちは、会社が武器の製造に関わるなど、断じて拒否するという姿勢だ。彼は、会社の決定権を、カサリア、ダニエレ、リスティを加えた四人に分割することにより、ナンテールの独走を抑えようとする。

 そこへ、ナンテールが乱入する。彼は、カサリアにピストルを突きつけ、ローランドに書類へのサインを迫る。しかし、キットに機転の利いた逆襲に会い、捨て台詞を吐いてその場を立ち去る。

 キットは、ナンテールからローランドとカサリアを守るために、しばらくの間、彼らの屋敷に住むことになる。キットはダニエレとリスティに事情を説明、ふたりともキットへの協力を誓う。

アメリカから、ローランドの妹、ベアトリスが突然訪れる。彼女だけは、ローランドが、武器製造のライセンス申請書にサインをすべきだと主張する。

 

 その後、ローランド、カサリアとその家族を、次々と不幸が襲う。先ず、カサリアの持ち馬が二頭、何者かにより射殺される。また、ダニエレが深夜、仕事の帰りに覆面をした男に襲われる。足の速いダニエレは、何とか、その男の追跡を振り切った。それらの出来事は、ナンテールが言っていた『事故』に違いないと、キットは考える。

 キットとリスティは、ナンテールに対する警戒体制を強める。カサリアの馬のいる厩舎に不寝番を付け、屋敷には用心棒を雇い、ダニエレを自分の車で送り迎えするようにする。しかし、リスティが競馬場にある工事現場におびき出され、バルコニーから墜落する。(リスティは、途中で引っかかっている間に、キットが観客のコートを集めて敷き詰めるという機転で命拾いするのだが。)また、更にもう一頭のカサリアの持ち馬が同じ銃で射殺される。

 

 キットには、もうひとつ頭痛の種があった。最近、メイナルド・アラーデックのキットに対する敵意が際限なく増幅してきていることだ。キットは数年前、メイナルドの嫌がらせを封じるため、メイナルドの会社のあくどいやり方により、財産や家族を失った人たちをフィルムに治め、そのフィルムの存在を盾に、メイナルドに圧力をかけていた。しかし、今回のメイナルドの態度は、これまでと明らかに違っているようだった。

リスティとキットは、ナンテールの性格と行動パターンを分析し、反撃の計画を立てる。彼らは、ナンテールと内通していると思われるベアトリスを利用することにより、ナンテールを逆に罠にはめることを計画する。

しかし、キットはダニエレから別れ話を持ちかけられ気を落とす。そして、自身、障害レースで落馬、負傷する。一見八方塞がりの状態の中、キットはどのように解決策を見出すのだろうか。

 

 

<感想など>

 

 ちょっと現実離れした、大時代な設定だ。

いきなり「プリンセス」が登場する。プリンセスと言っても、老婦人なのだが。ヨーロッパの某国の王室の出身で大金持ち、現在は英国に住み、多数の馬を所有している。キットの恋敵であり、同時に良き協力者でもあるリスティは「プリンス」。彼も、ヨーロッパの某国の王子であり、世が世なら国王になっていたと言う。

 また、「ロミオとジュリエット」を思い起こさせるような、フィールディング家とアラーデック家の敵対関係。

 これだけの舞台装置を用意して、ストーリーそのものがつまらなければ、不自然さだけが残るつまらない小説になっていただろう。

 また、犯人が最初から分かっているのだ。いかにその犯人の更なる犯罪を食い止め、いかに彼が犯人である証拠を挙げるか、ストーリーはそこに集中する。

 しかし、フランシスは持ち前の、よく練られたストーリーと、巧みな展開で、不自然さを最小限に抑え、読者を飽きさせることがない。

 

 前書きで、フランシスの小説は、主人公が成長するので好感が持てると書いた。今回の主人公、キット・フィールディングも人間的に成長する。

彼の婚約者ダニエレ・デュ・ブレスコウは、キットが結婚後も騎手を続けることを望んでいない。負傷や、時には死と隣り合わせた、余りにも危険な職業だからだ。彼は、職業を選ぶか、婚約者を選ぶか思い悩む。

注意深いことと勝利は互いに相容れない。冒険を犯さない騎手は名声、馬主、ひいては未来を失うことになる。そして、自分の場合は自尊心までも。一晩中結論の出なかった、ダニエレか職業のどちらを選ぶかという考えは、その日の午後の難しい障害レースの時まで私の心を離れなかった・・・

そして、迷い抜いた心で騎乗したそのレースのラストスパートの際、キットはその結論を得る。

決断は、ほとんど無意識にやってきた。私には別のことは出来ない。私の存在価値はまさに自分の前にある。それは、ダニエレによっても偽ることができないものだ。

彼は、そこで、馬に乗ることが、自分にとって何なのか、はっきりと認識するのだ。そして、その決断は、彼とダニエレの関係に、結果的には良い影響を及ぼすことになる。

 

カサリアは、どんな状況でも、レース前に、同じことをキットに言う。

「全力を尽くしなさい。」

この、まさに単純なアドバイスに、結構胸を打たれた。何かに向かうとき、いかなる状況にあろうと、それに集中し、全力を尽くす。それの繰り返しで、人間は成長するのだと思う。

 

最後に、障害の馬は、フラットレースの馬より、結構息が長く、八歳、九歳、ときには十歳までも現役で走るらしい。障害はやはり、スピードよりも技術の要求される主もなんだと納得した次第。

 

いつもながら、フランシスの小説は楽しく読める。

 

200512月)

 

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